徳川御三家のひとつ紀州徳川家の城・和歌山城ってどんなお城?
今月の歴史人 Part.6
江戸時代、徳川家は本家である将軍家の他に尾張・紀州・水戸にも徳川家を興していた。これらはのちの時代に「御三家」と呼ばれるようになり、将軍家を補佐する役割を担った。紀州徳川家では実際、8代将軍・吉宗から14代将軍・家茂までの将軍を輩出。今回はそんな紀州徳川家が本拠とした「和歌山城」を紹介する。
紀州藩初代藩主・徳川頼宣による大改修で壮麗な城郭に
暴れん坊将軍・徳川吉宗の居城でもあった!

紀州和歌山城図
豊臣秀長は、大和、和泉、紀伊の太守となり、桑山重晴 を城代に置いていた。山城であり、山上に本丸と曲輪が並立、山麓に二の丸、砂の丸、南丸、御蔵の丸が配置され、 周囲に内堀が巡らされていた。豊臣、浅野時代は岡口門が大手門で、徳川時代一の橋口が大手となった。(国立国会図書館蔵)
豊臣秀吉の時代、和歌山城は豊臣秀長がみずから縄張し、普請奉行に築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)を据えるなど念入りな築城が行なわれた。その後、関ヶ原合戦の戦功で浅野幸長(あさのよしなが)が和歌山へ入城。二の丸が造られ、天守が完成、土塁を石垣に改修するなど近世城郭へと姿を変えた。さらに元和5年(1619)、徳川家康の10男・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が約55万石で入城。頼宣は2代将軍・徳川秀忠の弟でもあり、紀州にて幕府を支えた人物である。こうして御三家の紀州徳川家が成立し、和歌山城は頼宣による大規模な改築が行われて現在のような壮麗な城郭となった。
こうした変遷は今の石垣からも見て取れる。浅野家の時代は青石(緑泥片岩[りょくでいへんがん])を多用、天守曲輪などには他城からの転用石も多く、加工ができないために野面積みで構成された。

天守曲輪 昭和20年(1945)、戦災で惜しくも焼失。三重三階の大天守をはじめ小天守・隅櫓などの天守曲輪の外観が復元された。

野面積石垣 紀州の変成岩を用いて 豊臣時代と浅野前期の石垣を一度に見渡すことができる。
紀州徳川時代になると砂岩を加工するようになるが、軟弱で割れやすいことから5代藩主・徳川吉宗[よしむね](のちの8代徳川将軍)は、花崗岩に取り換え、当然ながら切込接が多くなる。建物は明治の廃城から昭和の戦災で大半が失われ、 岡口門(重要文化財)1棟だけが江戸時代の面影を伝える。ここからの復元天守の眺めがいい。

打込接・切込接石垣 和泉砂岩を用いた浅野時代と徳川時代の打込接と花崗岩を用いた切込接を見ることができる。
平成18年(2006)に復元された御橋廊下(おはしろうか)も見ておきたい。二の丸と紅葉渓(こうようけい)庭園のある西の丸を往来するために架けられた橋だ。当時は藩主とお付の者だけが渡れたもので、 11度の角度が付いていて風流である。

紅葉渓庭園の池と御橋廊下 藩の政庁や藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を結んでいたとされる藩主とお付 きだけが通れた。
文/上永哲矢