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織田信長、明智光秀が落とせなかった悲運の城・八上城【兵庫県丹波篠山市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第2回


現在、わたしたちが目にする城は天守がそびえ、櫓に囲まれている、いわゆる観光スポットして見た目が映えるものがほとんど。しかしながら、戦国真っ只中、荘厳な建物を構え、敵を圧倒したもののその姿を失ってしまった城も数多くあり、そうした城々はその痕跡を残すのみとなっている。しかしながら、痕跡にこそ城の良さは光る。かつては壮大な敷地と巨大な建物を有しながら、歴史を経て、埋もれてしまった城の魅力を、歴史学者で城の研究を続ける小和田泰経氏に掘り起こしてもらう。


 

■明智光秀の母がはりつけになった逸話を残すなど、数々の伝承が残る「八上城」

 

「下の茶屋丸」跡
城跡からは兵庫県丹波篠山市が一望でき、高い場所に築かれた、堅固な城だったことがわかる。

 

 八上城(やかみじょう)は、現在の兵庫県丹波篠山市に所在する高城山(たかしろやま)に築かれた山城である。高城山は、地表からの高さが約200mもある。一般的に城は、地表からの高さによって3つに区分されている。すなわち、20mに満たない平地に築かれた平城(ひらじろ)、20mから100mほどの丘に築かれた平山城(ひらやまじろ)、100m以上の山に築かれた山城(やまじろ)である。このような尺度からすれば、八上城は典型的な山城だといってよい。

 

 八上城が築かれている高城山は、その外見が富士山に似ているという理由から、「丹波富士」の雅称でも親しまれている。丹波篠山市の市街からも近く、家族でも楽しめるハイキングコースとしても人気な場所である。篠山方面の西側から、春日神社口、藤ノ木坂口、弓月神社口、西庄口、野々垣口といった登城路が整備されているので登りやすい。

 

春日神社
かつてはこの辺りに政庁があったとされ、城主たちの居館があったといわれる。

 

 戦国時代に、この八上城を本拠としていたのが丹波国多紀(たき)郡を支配下におく波多野(はたの)氏である。波多野氏は丹波の有力な国衆で、幕府において管領家の細川晴元(ほそかわはるもと)とその被官・三好長慶(みよしながよし)が対立した際には、波多野稙通(たねみち/通称・元清)が細川晴元を支持して、三好長慶とも戦っている。そのため、八上城は三好氏によって再三、攻撃されることになった。

 

 永禄11年(1568)に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて織田信長が上洛した際、城主の波多野秀治(ひではる)は、三好氏と対立していたこともあり、三好氏を畿内から追放した足利義昭・織田信長に服属する。しかし、足利義昭が幕府の実権をめぐり織田信長と対立するようになると、波多野秀治は義昭を支援し、そのため、八上城は信長の命をうけた明智光秀によって包囲されてしまう。もっとも、八上城は難攻不落と謡われる典型的な山城である。そう簡単に落城するはずもない。八上城を攻めても容易に落とせないと判断した光秀は、八上城を包囲しつつ、支城を各個撃破する作戦をとっている。

 

石垣
縦列に尾根沿いに並んだ郭群が高い防御力を誇る。わずかに石垣を見ることができるが、そのほとんどは廃城後、篠山城に移されたという。

 

『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、天正6年(15783月、丹波に侵攻した光秀は、まず八上城の周囲に堀を掘って土塁を設け、その上に塀や柵を建てたという。完全に八上城を包囲することで、兵粮や弾薬が城内に運ばれないようにしたのである。こうして八上城を完全に包囲すると、八上城の支城を各個撃破していったのである。

 

 八上城の籠城が1年間におよぶころには、城内の兵糧がつきたことで餓死者も続出していたという。結局、天正7年(15796月、波多野秀治は弟らとともに捕縛され、織田信長のいる安土(あづち)へと送られてしまう。そして、安土城下の慈恩寺(じおんじ/現在の浄厳院)で磔(はりつけ)に処せられてしまったのである。

 

 なお、江戸時代に成立した『総見記(そうけんき)』によれば、波多野秀治に降伏開城を求めた明智光秀は、身の安全を保証すると称して実母を人質として八上城に送り込んだところ、約束が守られずに兄弟が磔にされてしまったため、光秀の実母も殺されてしまったということになっている。ただ、『総見記』は別名『織田軍記』ともよばれているように、典型的な軍記物語であり、書かれている内容が史実とは限らない。光秀は八上城を完全に包囲しており、そもそも実母を人質として送り込むほど追い詰められていたわけではなかった。実際のところは、助命を条件に降伏開城させたあと、その約束を反故にしてしまったのではなかろうか。

 

 それはともかく、こののち八上城は、丹波一国を与えられた光秀の支城となるが、光秀の死後、三大天下人に重用された前田玄以(まえだげんい)・茂勝(しげかつ)が城主となった。そして、江戸時代には家康にかわいがられた松平康重(まつだいらやすしげ)が入ったとき、新たに丹波篠山市の中心部に篠山城(ささやまじょう)が築かれことで廃城となっている。

 

篠山城から望む八上城
篠山城は徳川家康によって総勢8万人が動員され、築城された巨城であった。

 

 八上城の曲輪は、高城山山頂部におかれた本丸を中心に、本丸の西側に二の丸、さらに一段低い位置に三の丸がある。これら主郭部のほか、高城山全体を城域としているため、曲輪の数はすこぶる多い。

 

 また、城内には、波多野秀治の娘・朝路姫が身を投げたという「朝路池」や光秀の母が磔にされた「はりつけ松跡」などの史跡もある。ただし、残念ながらこうした史跡は伝承に基づくものであり、史実であったとは限らない。

 

本丸
八上城は多くの悲話を残す地であり「悲しき城」としても知られる。

 

 八上城は、江戸時代の初めに廃城となったまま近代を迎えているため、伝承はともかく、石垣や土塁、堀切などの遺構は間違いなくすべて戦国時代のものである。近くには、八上城に替わって築かれた平城の篠山城も残されているので、遺構を比較してみることをオススメしたい。

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過去記事

小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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