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美談とされる細川幽斎が籠もった田辺城籠城の真相 後編

歴史研究最前線!#006

心中で戦を躊躇っていた西軍の諸将

田辺城

田辺城

 前回述べたとおり、田辺城を攻囲した西軍諸将の面々に幽斎の弟子が多かったため、攻撃の手を緩めたことになっている。そのような美談で片づけてよいのだろうか。

 

 同年7月17日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は連署して、但馬の大名・別所吉治に書状を送った(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』二)。詳しい内容は、以下のとおりである(現代語訳)。

 

 細川忠興は何の忠節もないのに、秀吉に取り立てられた福原長堯の旧領(豊後国速水郡)を家康から与えられ、さらに今度は何ら落ち度のない上杉景勝を追討するため家康に加勢し、細川氏の一門はすべて会津征討に赴いた。秀頼公から細川氏を成敗するため、丹後に軍勢を送ることになったので、軍忠を尽くしてほしい。軍功によって褒美を遣わす。

 

 このような命を受けて出陣した者もいたが、ほかの諸大名がどのような形で丹後に向かったのかは詳らかではない。おそらく、同様に出陣命令があったのだろう。

 

 とはいいながら、彼らがやる気満々で田辺城に向かったのかは疑問である。同年7月19日、細川幽斎は西軍の赤松広秀に書状を送った(「大山崎町歴史資料館所蔵文書」)。概要を次に示しておこう。

 

 幽斎は上杉景勝の行動について、力や欲に任せたものと指摘する。やや婉曲的な表現でわかりづらいところもあるが、幽斎は広英にお目に掛かって相談できれば、詳しいことをお伝えしたいとし、そのときに西軍の情勢を教えてほしいとする。

 

 少なくともこの段階において、幽斎と広英は、まだ相談できる段階にあった。幽斎は西軍の面々に対して糺すべきだと述べているので、いろいろと相談できる関係だったのだろう。広英は儒学の祖といわれる藤原惺窩から親しく教えを受けていたので、その関係から幽斎を知っていた可能性がある。

 

 同年8月6日、広英は細川氏の家臣・松井康之に書状を送った(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』三)。冒頭でこの度の不慮(田辺城攻撃)について心中を察するとし、田辺城が籠城中であることを伝えている。そして、そちらは大丈夫だろうから、上洛して諸事について忠興の指示を受けるべきであると述べる。

 

 このように広英が伝えるということは、心中のなかでは西軍に属しているのが、本意でない可能性を示している。関ヶ原合戦後、広英はすぐに東軍に転じて鳥取城を攻撃。城下に火を放った罪で、切腹に追い込まれたという。

 

 関ヶ原合戦後、田辺城攻撃に参加した小野木重勝は東軍に攻められ、丹波亀山城で自害に追い込まれたが、ほかの出陣した諸将はおおむね許されている。『寛政重修諸家譜』には、谷衛友は裏で細川氏とつながっていたと書かれている。二次史料の記述ではあるが、最初から戦う意思が乏しかったことが想定される。

 

 西軍諸将が幽斎の弟子であったか否かはさておき、丹波・但馬の諸将は西軍の命を受けたものの、実際は田辺城攻めは本意ではなく、渋々応じた可能性が高い。彼らは京都・大坂におり、出陣要請を断ってしまうと、攻撃される危険があった。

 

 つまり、西軍の諸将が幽斎の弟子だったという美談には大きな疑問があり、実際には出陣要請の命に背けず、渋々出陣した可能性が高いのだ。

 

【主要参考文献】
 渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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