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美談とされる細川幽斎が籠もった田辺城籠城の真相 前編

歴史研究最前線!#005

命と伝統を救った古今伝授の存在

田辺城

田辺城

 慶長5年(1600)7月、関ヶ原合戦の開戦が間近になると、細川幽斎(玄旨)は東軍の家康に味方し、わずか500人という手勢で丹後国田辺城(京都府舞鶴市)に籠城した。子の忠興が会津の上杉景勝討伐に従軍したため、忠興の弟・幸隆と従兄弟の三淵光行が城に残った。

 

 なお、大坂にいた忠興の夫人ガラシャは、西軍の人質になることを拒み、死を選んだ。三成と忠興は、犬猿の仲だったと言われている。

 

 同年7月19日、田辺城は西軍の軍勢に囲まれた。西軍の面々は、小野木重次、前田茂勝、織田信包、小出吉政、杉原長房、谷衛友、藤掛永勝、川勝秀氏、早川長政、長谷川宗仁、赤松広秀など、丹波・但馬の諸大名を中心とする約1万5000という大軍である。もはや勝敗の帰趨は明らかであった。

 

 幽斎は少数で西軍の軍勢をよく防いだが、これには大きな理由があった。当時、和歌や連歌に関心を持つ武将が多く、西軍の軍勢の中には幽斎の弟子も数多くいた。彼らは幽斎を討ち取ることを躊躇していたと、通説ではいわれている。

 

 西軍にとっては、大きな誤算であったかもしれないが、彼ら西軍の諸将が幽斎の弟子だったという証拠は乏しい。

 

 事態をもっとも憂いたのは、後陽成天皇であった。天皇は幽斎の戦死により、古今伝授の伝承者がいなくなるのを恐れていた。当時、幽斎以外に古今伝授の継承者はおらず、その死は伝統の死をも意味したからである。

 

 そこで天皇は八条宮智仁親王を田辺城に派遣し、幽斎に開城を勧めたものの、これは拒否され籠城戦は続いた。討ち死に覚悟を示した幽斎は、朝廷に『源氏抄』と『二十一代和歌集』を献上し、八条宮智仁親王に『古今集証明状』を贈呈したという。

 

 諦めきれない天皇は、勅使として幽斎の歌道の弟子・三条西実条、中院通勝、烏丸光広を東西両軍に派遣し、講和を命じた。勅命を受けた幽斎は講和することに従い、9月13日に田辺城を開城した。

 

 そして、幽斎は西軍の前田茂勝の居城・丹波亀山城(京都府亀岡市)に連行された。この間、西軍の約1万5000の兵は田辺城に釘付けとなり、関ヶ原に向かうことができなかった。西軍が敗北した一因とされている。

 

 三条西家から幽斎に伝わった古今伝授は、近世に至って後水尾天皇ら歴代天皇や上層公家に伝えられ、御所伝授として確立した。古今伝授は幽斎の命を救っただけでなく、伝統をも救ったとされている。もはや一つの美談になっているが、それは事実なのだろうか?

 

(続く)

 

【主要参考文献】
 渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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