五大老と五奉行の上下関係に疑問符!? 実は五奉行の方が偉かった!【後編】
歴史研究最前線!#004
安土桃山時代に豊臣政権の中枢として機能した「五大老」と「五奉行」を担った武将たちは、実際にどのような役割を担っていたのだろうか?実際の役割を検証しながら、両者の関係性についても考察する。
実際は五奉行の方が偉かった可能性が高い

徳川家康・前田利家・小早川隆景・浅野長政・石田三成・増田長盛/国立国会図書館蔵、上杉景勝/都立中央図書館特別文庫室蔵
前回、五大老制の成立について述べてきたが、具体的に五大老はどのような役割を担ったのだろうか。同じく五奉行の職掌はどのようなものだったのだろうか。以上の点は、これまでさまざまな議論がなされてきたが、最近では堀越祐一氏が整理を行った(堀越:2016)。以下、堀越氏の研究に基づき、五大老、五奉行の役割について考えてみよう。最初は、五大老の職務である。
第1の職務は、秀吉の時代に引き起こされた文禄・慶長の役後、朝鮮半島から日本軍を引き上げることである。文禄・慶長の役は秀吉の死によって終わったが、朝鮮半島からの撤兵は大変な仕事だった。九州諸大名へ明や朝鮮の追撃を想定した警護の指示をし、同時に朝鮮に渡海した大軍を日本へ運ぶための船の準備などが必要だった。これが五大老の最初の大仕事だったが、あくまで臨時的なものに過ぎなかった。
第2の職務は、慶長4年(1599)に勃発した庄内の乱など、謀叛や反乱への対処である。乱に対処したのは、徳川家康だった。庄内の乱とは、薩摩の島津忠恒(家久)が重臣の伊集院幸侃(忠棟)を殺害したことに対して、幸侃の子・忠真が叛旗を翻した事件である。この職務についても、恒常的な五大老の職務ではなかった。あくまで、突発した事態に対する臨時的なものだった。
第3の職務は、諸大名へ領地を与えることだった。こちらが恒常的な職務として、もっとも重要である。秀吉の生前、豊臣家の専権事項の一つが領地の給与だった。ところが、後継者の秀頼が幼かったため、五大老が代行していたのである。五大老の発給文書の約六割は、各大名への領地宛行状だったので、中心的な職務だったのは明らかだろう。しかし、五大老が判断して領地を宛がう権限はなく、秀頼の意を奉じる必要があり、その点には注意が必要だろう。
五奉行の職掌についても種々議論が重ねられたが、こちらも堀越氏によって整理された(堀越:2016)。
その内容は、第一に主要都市(京都、大坂、堺、長崎)の支配である。しかし、もっとも重要な職務は、豊臣家直轄領(蔵入地)の統括だった。豊臣家の直轄領のうち、畿内に所在するものは豊臣家直属の家臣や寺社を、地方に所在するものは大名をそれぞれ代官に任命し、五奉行がこれを統括した。五奉行が米を金銀に替えさせたり、蔵米を納入させるよう指示していたのである。
さらに重要なことは、諸大名への知行給与は、五奉行の主導のもとで行われ、五大老は秀頼の代行として知行宛行状に署名するだけだったと指摘されている。つまり、実際の豊臣政権の運営は、五奉行が中心になって行われていた。堀越氏は、それを豊臣家「年寄」を自認する「五奉行」による、「奉行―年寄体制」と指摘する。
堀越氏の指摘を参考にすれば、従来の五大老が格上、五奉行が格下という考え方には再考が迫られる。実質的に豊臣政権を担ったのは五奉行であり、五大老はその指示に従わざるを得ない側面があったといえよう。
つまり、従来説では「五大老が上、五奉行が下」と考えられてきたが、実際は逆だったことが判明する。この点はしっかり押さえておくべきだろう。
【主要参考文献】
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)
渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)