箕輪城攻め1566年<その2>~調略による切り崩しが困難だった業政の人望
戦国武将の城攻め【解体新書】#002
長野業政を中心として信玄に10年抵抗した上州一揆
しかし永禄4年(1561)、この一揆の中心である業政が63歳で病没することにより、情勢は予断を許さなくなる。
これを聞いた信玄は、北条氏康との間に、利根川以西を武田家が、以東を北条家が支配するという密約を結ぶ。
さらに、同年11月、一揆方の最南端に位置する国峰城を攻略したのを手始めに、永禄6年(1563)、箕輪城の南方1里余の和田城を調略により武田方とし、甘楽・多野両郡の13城を取り込んだ。
また武田家上州攻略部隊の北部戦線を担う真田幸隆は、永禄7年(1564)に岩櫃城を、翌8年には嶽山城を攻略、さらに倉賀野、安中、松井田の3城を落城に追い込んだ。
こうした地ならしを経た後、永禄9年(1566)9月、2万の大軍を率いた武田信玄が箕輪城に攻め寄せた。
この時、箕輪城に籠った兵はわずか1500。これでは2万の武田軍に敵うべくもない。箕輪城は落城し、長野氏の構築した一揆による連合体も壊滅した。
しかし信玄は、弘治3年(1557)以来、西上州の攻略に10年の歳月をかけてしまい、それが、上洛という野望達成の妨げとなったことは否めない事実である。
戦国時代の名だたる武将の中でも、武田信玄ほど周到で慎重な軍略家はいない。九分九厘勝てると思われる戦でも、無駄な力攻めで配下を損耗することを嫌い、敵に降伏を促す。そして敵を傘下に収めた後、周到な謀略によって家と領国の乗っ取りを図るのである。
ところが西上州だけには、その手が利かなかった。長野業政という一代の英傑がいたからである。
(続く)