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Ifの信長史 第1回~尾張の風雲児から覇王への道~

斎藤龍興を追い払った信長、三好三人衆に対峙す

■斎藤龍興を追い払った信長、三好三人衆に対峙す

勝幡城

勝幡城に始まる織田弾正忠家・信長CG制作/成瀬京司

 天正10年(1582)6月1日。京、本能寺。その大書院に、ひとつの人影がひっそりと座している。人影はこの巨刹を逗留の場としている右大臣織田信長。眼の前に壇が設えられている。緋毛氈を敷かれたその上には、数日後に控えた茶会の道具立てが整えられている。名物と謳われる茶器の数々だ。ふと、人の気配を察して信長は振り返った。側室の直子である。息子の信正を産んでまもなく実家へ帰されたが、信忠と共に上洛している信正を訪ねてきたらしい。

 

 信長の生まれた織田弾正忠家は、尾張の国主ではない。当時、尾張は守護大名の斯波氏が統治しており、支配下に織田大和守家があり、尾張国の下四郡を支配していた。同じ苗字のためややこしいのだが、この大和守家の家臣の家が信長の実家である。城は古渡というちっぽけな城がひとつあるだけだった。その主、織田信秀の嫡男が信長である。粗暴な小僧で、長じてもなお、〝大うつけ〟と呼ばれた。「たわけ」という意味である。そんな大うつけが、天下に覇を唱えることになろうとは、諸国の大名はおろか、家臣ですら、夢にも思わなかったろう。 「運が巡ってきたのよ」

 

 大和守家が主君斯波義統を殺害してしまったことである。主殺しは謀叛である。誅せねばならない。信長は兵を起こし、大和守家を討ち滅ぼした。主が亡くなり、そのまた主もすでに亡い以上、尾張を治める者は、織田弾正忠家を継いだ信長しかいない。

 

 しかし、尾張国の一部を支配するようになったとはいえ、まだまだ非力だった。そんな尾張に今川義元が侵攻した。永禄3年(1560)のことである。奇蹟的に信長は義元を討ち果たし、天下に名を上げ、徳川家康とも同盟関係を結んだ。さらに、宿敵である斎藤龍興を美濃から追い払った。

 

 永禄9年(1566)、信長の元へ正親町天皇より勅使が遣わされ、誠仁親王の元服について費用をまかなうよう勅命が降りた。天下布武の朱印を用い始めた頃で、京では三好三人衆が我が物顔でのし歩いていた。将軍の後継である足利義昭が信長に援けを頼んできたのと、ほぼ一致している。信長は樹った。

 

(次回に続く)

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秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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