歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第75回~徳川家康・秀忠親子×真田幸村~
冬〜夏の「大坂の陣」では敵として戦った関係だが、 実は人としての相性は抜群だった!
歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。
その因縁とはまるで裏腹の好相性
今回は、徳川幕府を開いた徳川家康と、その後を継いだ2代目将軍・徳川秀忠、そしてその徳川家を脅かした、日本一の兵・真田幸村の相性を四柱推命鑑定する。徳川父子と幸村は、どう考えても犬猿の仲のように思えるが、鑑定の結果、3人は素晴らしい相性であり、固い絆で結ばれていることが明らかになった。
まずは3人の関係性を図で示す。家康と秀忠の相性のよさは以前この連載でも説明したが、なんと!家康と幸村の相性は90%、秀忠と幸村の相性は100%と、抜群の相性であるばかりか、幸村は家康と秀忠にとって守護神であることが明らかになった。
順番にその関係性を見て行こう。
〇家康と幸村の相性90%!
相性は0~100%で表されるが、70%以上が一般に相性がいいと言われる。その中で、家康と幸村の相性は90%と抜群であった。家康は他の武将に比べて、運勢エネルギーが低いこともあり、なかなか相性のいい武将がいない。そんな中、最も相性のよかった武将は、武田信玄で、90%だったが、他の武将に70%以上の相性を持つ者はいなかった。なかなか理解されなかったのだろう。そんな中の幸村の90%だ。これには筆者も驚いた。
家康と幸村の関係を説明する前に、家康と幸村の父・昌幸の因縁について考える必要があろう。そもそも、真田家は信濃の小さな大名に過ぎなかった。真田の領地は、上杉、徳川、北条に囲まれており、昌幸は、徳川・上杉・豊臣と仕える相手を変えながら生き残りを図った。昌幸が徳川に仕えていた当時、真田の領地である沼田を譲渡するよう迫られ、これに腹を立てた昌幸は、家康を見限り上杉景勝に就くことにした。昌幸の寝返りを知った家康は、真田に兵を差し向ける。1585年、第一次上田合戦である。徳川軍7000に対し、真田軍はわずか2000。籠城戦を選択した昌幸は、徳川軍が押し寄せる中、いかにも簡単に開城した。門が開いたことによって油断した徳川軍。昌幸はそこにつけこみ、なだれ込んできた徳川軍を弓矢等で一斉に狙い撃った。これによって、徳川軍は総崩れ。1300人の死者を出す大打撃を与えた。徳川と真田の因縁はここから始まっている。
さらに遡ると、家康が大敗しトラウマになったという、三方ヶ原の戦いに、武田軍として昌幸が参戦しており、これに端を発しているとも言える。それにしても、家康は因縁のある武田信玄とも相性が90%だというから面白い。こうなると、家康と昌幸の相性も気になるところだが、昌幸の生年月日がわからないため、残念ながら叶わない。なお、第一次上田合戦に幸村が参戦していたかどうかについては、学者でも意見が分かれるところである。当時、上杉家の人質となっていた幸村であるが、これを初陣だったとする説もある。
後に説明する第二次上田合戦と合わせて、徳川軍に対して勝利を重ねてきた真田家。しかし、関ヶ原の本戦で敗れたため、罪人として和歌山県の九度山で隠居生活を送ることになる。昌幸はこの地で「もう一度徳川と戦いたかった」と言って亡くなったといわれている。相当に深い因縁である。
そんな昌幸を見てきた幸村は46歳にして、大坂の陣に豊臣方として参戦し、徳川軍と対決する。1614年、大坂冬の陣において、幸村は味方に阻まれながらも最善の策を練った。大坂城は3方を川で囲まれていたため、敵が攻めてくるとすれば南からと踏んでいた。幸村は、大坂城の弱点である南側に真田丸と言われる出城を作り、最前線で徳川軍を迎え撃った。これにより、徳川軍に大打撃を与え、死者は15000人に上ったという。豊臣方が有利になったが、幸村の反対にも関わらず豊臣方は家康の和睦交渉に応じ、戦は終結。大坂城の堀が埋められ、苦境に立たされて行われたのが、1615年大坂夏の陣。豊臣軍5万に対して徳川軍15万。徳川軍は3日分の食糧しか用意しておらず、すっかりこの戦をなめ切っていた。そんな中、全軍対決において、幸村はとんでもない作戦に打って出る。家康の本陣に突入して首を狙うのみと、3000の兵で本陣を目指した。その距離4キロ。何万騎もの敵をかわして、家康をギリギリまで追い詰めたという。一説によると、家康は敗北を覚悟し「腹を切る」と言ったのだとか。幸村の最期の活躍には、徳川方の武将からも称賛の声が上がった。
こんな因縁だらけの家康と幸村の相性が90%とは…。大坂冬の陣の最中、家康は幸村に対し、何度も寝返るように誘ってきたという。「徳川方に寝返れば10万石を与える」「信濃一国を与える」等、それはそれは熱心な勧誘だったという。これは豊臣方との戦を有利に進めることを目的としたものだろうが、幸村に会ってみたい、家臣にしたいという思いもどこかにあったのだろう。
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