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Ifの信長史 第2回~唯一、明智光秀だけが畿内にいた~

各方面軍は反信長勢力と対峙の中、信長と嫡男信忠は京都にいた

上杉景勝、毛利輝元ら歴戦の武将たちと対峙する

明智軍

迫る1万5000の明智軍 CG制作/中村宣夫

 永禄11年(1568)、信長は軍を起こし、上洛した。35歳という若さだった。北近江の浅井久政・長政と同盟して南近江の六角義賢・義治を蹴散らし、都から三好三人衆を追い落とし、足利義昭が第15代将軍の座に就く後ろ盾となった。だが、元亀年間に入り、信長の軛を快く思わない義昭により、信長は窮地に追い込まれた。信長との同盟を反故にした浅井家をはじめ、朝倉義景、三好三人衆、石山本願寺の法主顕如、比叡山延暦寺、そして武田信玄など、幕府を臍とした巨大な勢力が敵対し始めたのである。 信長は酷烈な性格だった。敵対していた延暦寺を焼き討ちにしたのもその一例だが、そうした人間が版図を徐々に拡大して天下人になろうとすれば当然、それを潰そうと躍起になる者が現れる。

 

 浅井・朝倉の滅亡と信玄の病死によって一旦は崩れた包囲網だったが、天正年間に入って甦った。再挙兵した石山本願寺、毛利輝元、松永久秀、紀州雑賀衆、そして上杉謙信。だが、要の謙信が急死するなど、信長を討ち滅ぼすことはできなかった。それどころか、信長はさらに右大臣へと昇進し、その一方で堺の会合衆とも京の相国寺で茶会を催すなど、いよいよ絆を深めていった。今、信長に敵対している大名は、越後の上杉景勝、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、九州の島津義久といった連中で、これらに対し、方面軍の司令官が対峙していた。

 

 すなわち、越後には柴田勝家、中国には羽柴秀吉、四国には神戸信孝と丹羽長秀をあてがっていた。九州は中国と四国の彼方にあるため、方面軍は編成されていない。

 

 もっとも、こうした布陣の中、ただひとり、強靭な軍団を従えつつも畿内に留め置かれていた者がいる。明智光秀である。

 

 この初夏、信長は光秀に対して遊山にやってきた家康の饗応を命じていたが、いきなり解任し、中国攻めを続けている秀吉の援軍に立つよう命を下していた。

 

(次回に続く)

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秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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