箕輪城攻め1566年<その1>~上州国衆盟主・長野氏制圧を目指す信玄
戦国武将の城攻め【解体新書】#001
■地縁的上州一揆が血縁的結合の体をなし籠城戦で挑む
鎌倉時代から南北朝時代に入る頃、関東各地には、一揆という地域武士の共同体ができていた。 一揆は、一人ひとりは弱小でも、集団となることで大勢力から所領を守るという目的から結成されていた。
一揆にも大小があり、関東の有力な一揆としては、血縁的結合体である平一揆(平氏系)や白旗一揆(源氏系)、地縁的結合体である上州一揆や武州一揆などが知られている。
長野氏が盟主となる上州一揆は、西上野を中心とした地縁結合集団である。
16世紀前半まで関東管領・山内上杉氏に属し、多くの戦いに貢献してきた長野氏だが、天文21年(1552)、小田原北条氏との戦いに敗れた山内上杉憲政が越後に没落するに及び、一揆だけで生き残りを図らねばならなくなる。
この時、長野家当主の業政は、地縁だけでなく血縁面でも一揆内の強化を図ろうとする。すなわち自らの息女12人と、早世した兄業氏の息女3人を、有力な一揆構成員である小幡城の小幡信定、国峰城の小幡景定、和田城の和田業繁、倉賀野城の金井景秀などに輿入れさせたのだ。
さらに一揆ではないものの、白井・惣社の両長尾氏、岩櫃城の斎藤氏、沼田城の沼田氏とも越後の上杉輝虎(後の上杉謙信)を介して、強固な攻守同盟を結んだ。
これにより長野氏の本拠・箕輪城を中心に50余にも及ぶ城郭網が形成された。
(続く)