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越後国・堀氏の讒言と会津征討【後編】

歴史研究最前線!#010

会津征討に秀治の注進が大きく影響

堀秀治が居城として入った越後国春日山城(新潟県上越市)の天守跡

 前回、堀秀治が年貢不足により苦境に立ったことを取り上げたが、その後の状況はどうなったのだろうか。

 

 上杉景勝が旧領越後から会津に年貢を運び込んだので、苦境に陥った秀治が景勝に不満を抱くのは無理からぬところである。堀氏は事態を打開すべく、即座に動きを見せた。慶長5年(1600)2月、秀治の家老を務めていた堀直政は、徳川家康に対して上杉家の不穏な動きを報告した(『会津陣物語』)。

 

 その報告内容とは、①全国から名のある牢人を召抱えたこと、②人夫約8万人を動員して、神指城を築城したこと、③道や橋の整備を行なったこと、④おびただしい量の馬、弓矢、鉄砲の武具を準備したこと、の4点に集約される。一言で言えば、①~④は合戦の準備を進めているということになろう。

 

 もっとも重要なのは、「殊に越後は上杉氏の旧領なので、国中の民・百姓が景勝を父母のように慕っている。これにより一揆を起こされることを気遣って、枕を傾けて眠ることができず、公儀がもしなおざりに考えて措置が遅れたならば、天下の大事になるということを直政が注進した」という一文である。

 

 堀氏は前半部分で上杉氏の軍備拡張を報告し、それがやがて越後国内で一揆に繋がるかもしれないと、切々と危険性を家康に訴えたのであった。『会津陣物語』は後世の編纂物ではあるが、神指城を築城した事実などの史実もきちんと書いている。とはいいながらも、記述内容がすべて正しいとはいいがたい。

 

 堀氏が行った家康への一連の報告は、慶長5年2月の事実とされてきた。ところが、報告した年月については、最近の研究によって誤りであると指摘されている。

 

 その研究によると、慶長5年2月より以前に秀治から報告がなされたと考えられ、姜沆(きょうこう)による『看羊録』の記述によれば、慶長4年10月に家康が加賀の前田利長を征伐しようとした際、堀氏は景勝の不穏な動きを何度か報告をしていること、②慶長5年1月に藤田信吉が上洛して家康に念頭礼を述べた際、家康は景勝の上洛を促していること、という2つの事実を指摘している。いずれも慶長5年2月以前のことである。

 

 つまり、堀氏が景勝の動向を家康に報告したのは、慶長5年2月が初めてではなく、それ以前に遡ることができる。

 

 堀氏が越後に入部した直後から、景勝が領内の年貢を新天地である会津に持ち去ったことは発覚していた。以後、堀氏は財政難に悩まされていたのであるから、家康折に触れてに窮状を訴えていた可能性は高いといえよう。こうして景勝は逆に窮地に立たされ、家康による会津征討が開始されたのである。

 

【主要参考文献】

渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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