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越後国・堀氏の讒言と会津征討 前編

歴史研究最前線!#009

不完全な兵農分離により未耕作地が激増

越後国春日山城(新潟県上越市)の天守跡

 徳川家康が慶長5年(1600)7月に会津征討を行った理由は、上杉景勝が謀反を起こそうとしているという噂にあった。景勝謀反の情報については、景勝のあとに越後に入った堀秀治からも報告されていた。

 

 堀秀治とは、どのような人物なのか。天正4年(1576)、堀秀治は秀政の子として近江国に生まれた。もともと父の秀政は織田信長の配下にあったが、信長の死後は羽柴(豊臣)秀吉に仕え、越前国北ノ庄(福井市)を領していた。天正18年の小田原合戦の陣中で秀政が病没したため、秀治が堀家の家督を継承することとなった。

 

 慶長3年に上杉景勝が会津(福島県会津若松市)に移封すると、秀治は越後国春日山城(新潟県上越市)に景勝の代わりに入った。そして、2人が交代のような形で移封したことは、直後に大問題になったのである。

 

 慶長3年2月頃、会津では前任者の蒲生秀行が立ち去ったあと、景勝が越後など旧領の年貢を会津に運び込んだ。その4ヵ月後の慶長3年6月、秀治が北ノ庄から越後に入ってみると、すでに年貢米は景勝が会津に運び込んだあとだった。同年秋、越後では年貢の徴収を行ったが、思うようにいかなかった。その間の厳しい状況を凌ぐために、秀治は上杉家から米を借用したといわれている。しかし、事態はより深刻な問題を抱えていた。

 

 上杉氏が越後を離れて会津に赴任する際、旧領越後から連れて行くのを許可されたのは基本的に武士身分の者に限られており、百姓を連れて行くことはできなかった。しかし、この場合には武士身分という解釈が大きな問題だった。

 

 戦国期を通して、解釈が難しいのは兵農分離の実態である。武士の中でも階層の低い者は、耕作にも従事していたのが普通だった。通説によると、秀吉が検地を実施することにより、兵と農の身分がはじめて厳密になったと解されている。ところが、現実は理論どおりに進むことなく、いまだ身分的には武士と百姓が混在していたのが実情である。

 

 したがって、理論上では百姓が越後に残ったことになっていたが、現実には兵農未分離状態の下層の武士も会津に行っていたと推測される。そのような事情から、越後の耕作者の数は激減した。結果的に越後の百姓が減ったため、未耕作地が増加することになった。堀氏の年貢徴収は期待できず、それどころか以後はより困難になった。案の定、堀氏が赴任した翌年の年貢徴収は、悲惨な結果を迎えた。

 

 堀氏は事態を打開すべく、越後入部後に検地を行った。ところが、魚沼郡雲洞村(新潟県南魚沼市)では80%の田が荒田(耕作放棄地)になっており、そのうちの90%の名請人(耕作して年貢を負担する者)が会津に行っていた。やはり、耕作者=年貢負担者がいなかったのである。このような惨憺たる状況では、年貢徴収を強化しようとしても、不可能なのは明らかだった。堀氏には、もはや打つ手がなかったのである。

 

 とはいえ、堀氏も事態を静観するわけにはいかなかった。百姓1人当たりの年貢の負担額をこれまで以上に増やし、財政を何とか好転させようとしたと考えられる。百姓の負担が増えるのだから、まさしく窮余の策だった。堀氏の無理が祟って勃発したのが、越後一揆であり、事態はますます悪化したのである。

 

【主要参考文献】

渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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