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敗者の大坂の陣 長宗我部盛親の仕官運動はなぜ失敗したのか? 前編

歴史研究最前線!#019

家康により改易され牢人の身に

平成27年に秦神社(高知県高知市)に建立された長宗我部盛親の慰霊碑。

 大坂の陣における豊臣方の主要な牢人の一人としては、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が有名であろう。盛親は土佐の戦国大名・長宗我部元親の四男として誕生したが、長男の信親が九州征伐における戸次川(へつぎがわ)の戦いで戦死したため、天正14年(1586)に跡継ぎに定められた。

 

 慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦がはじまると、盛親は石田三成率いる西軍に与した。しかし、西軍の敗北が決定的になると、盛親は戦うことなく領国の土佐に逃亡した。その直前、盛親は家臣・久武親直(ひさたけ ちかなお)にそそのかされ、土佐国を支配しようと謀反の動きを見せた兄・津野親忠(ちかただ)を殺したという。

 

 盛親は井伊直政を仲介し徳川家康に弁解する一方、浦戸城(高知市)の防備を固め、兵糧の運搬や普請を命じた。万が一の事態に備えたのである。ところが、家康は親忠を殺したことに激怒し、盛親は土佐一国を召し上げられたのである。これにより盛親は、牢人生活を送らざるを得なくなった。

 

 改易後、盛親は大岩祐夢(ゆうむ)と名前を変え、京都・小川通りで子供たちを集め、手習いの私塾を開いた(以下も盛親で統一)。また、私塾を開くまでの盛親は、京都伏見で仕官活動をしていたという。これは、前回の連載で取り上げた仙石秀範と同じであるが、盛親には大きなアドバンテージがあった。

 

 盛親は、かつて父・元親と親密な関係にあった蜷川親長(ちかなが)を通して、長宗我部家の再興を目論んでいた。当時、親長は出家して、道標(どうひょう)と名乗っていた。関ヶ原合戦後、親長は土佐の浦戸一揆(長宗我部氏の下級家臣の反乱)を制圧し、家康はその高い能力を評価した。

 

 かつて室町幕府の幕臣でもあった名門・蜷川家の流れを汲む親長は、やがて家康から旗本に抜擢され、慶長7年(1602)に山城国綴喜郡(つづきぐん)内に500石を与えられた。むろん、大出世である。

 

 盛親が京都に住んだ理由は、家康が伏見城(京都市伏見区)にいることが多く、また親長が京都に滞在中だったからである。すべては仕官活動のためであった。あわよくば仕官ではなく、土佐一国の大名への仕官を目論んでいたかもしれない。

 

 つまり、盛親は親長に書状を送り、その口添えによって家康から許しを得、何とか仕官への突破口を開こうとしたのである。しかし、書状を受け取った親長にとって、家康の処分を受けた盛親の申し出は非常に迷惑であったのは想像に難くない。親長はいろいろと理由をつけて、盛親との面談を避けていたという。

 

 その後、盛親は仕官に成功したのだろうか?

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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