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長宗我部盛親の仕官運動はなぜ失敗したのか?【後編】

歴史研究最前線!#020

最期まで再興を夢見た盛親

平成27年に秦神社(高知県高知市)に建立された長宗我部盛親の慰霊碑。

 前回の続きで、盛親の仕官運動のその後を確認しておこう。

 

 盛親はかつての家臣に対して書状を送り、とりあえず他家に仕官することを薦めている。もし、晴れて長宗我部家が再興したときには、馳せ参じるように命じていた。盛親は長宗我部家の再興について、楽観的に考えていたようである。しかし、親長を通した家康への仲介は失敗し、許しを得られなかった。長宗我部家再興の夢は潰えたのである。

 

 慶長19年(1614)10月の大坂冬の陣に際して、盛親は豊臣秀頼の招きに応じて、大坂城に入城した。豊臣方では数少ない旧大名クラスの入城だけに、大いに期待をされた。盛親が入城する際には、かつての家臣らが集まり、その軍勢は約1千人にまで膨らんだという。家臣らも大坂の陣で徳川方を打倒し、長宗我部氏の復権を念願していた。盛親が復権すれば、家臣は仕官への道が開けたからである。

 

 大坂冬の陣において、盛親は真田信繁ら主要な牢人衆とともに「五人衆」の一人として豊臣方の中核となった。もっともランクが高かったといってもよい。一説によると、徳川方に勝利した際は、土佐一国を与えることを約束されたという。

 

 しかし、事はうまく進まなかった。慶長19年(1614)12月4日、真田信繁が守る真田丸付近で火薬庫が爆発した。それが豊臣方の南条元忠(なんじょうもとただ)が徳川方に寝返るとの合図と盛親は勘違いし、徳川方が攻撃してきたときに井伊直孝らと戦ったという。ところが、これ以外に盛親の戦いらしい戦いはなく、大坂冬の陣は徳川方と和睦を結びいったん終わる。盛親にとって、まったくの期待外れだった。

 

 翌元和元年(1615)になると、徳川方と豊臣方の和睦は破れ、5月に大坂夏の陣がはじまった。再び戦いがはじまったものの、豊臣方は前年に大坂城の惣構(そうがまえ)や堀などを埋め立てられており、すっかり丸裸の城になっていた。したがって、当初から豊臣方の厳しい戦いが予想された。

 

 元和元年5月、道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いで豊臣方は敗北を喫した。いよいよ大坂城の落城が迫ると、再起を期した盛親は戦場から逃亡した。5月7日のことである。関ヶ原合戦に続き、二度目の敗走だった。

 

 その4日後の5月11日、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の家臣は、盛親が京都八幡(八幡市)に潜伏しているところを発見し生け捕りにした。その後、盛親は二条御所の門前で晒し者にされた挙句、5月15日に斬首された。その首は六条河原に梟首(きょうしゅ)となった。無念の最期であったといえよう。

 

 ところで、捕縛された盛親には、その覚悟を示す逸話がある。『井伊年譜』によると、伏見城に滞在中の家康と対面した盛親は「合戦で討ち死にすることはたやすいことであるが、生き長らえて今一度、秀頼公を守り立てて天下を覆そうと思っている」と述べたという。盛親の最後の意地であった。

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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