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明智光秀は近江田中城を居城とした医者だったのか 前編

歴史研究最前線!#015

医薬書に記された光秀の田中城籠城説


坂本城址(滋賀県大津市)近くにある明智光秀像

 これまで2回に分けて、明智光秀と近江との関係について述べてきたが、光秀が滋賀県にゆかりがあったという説は、ほかにもある。同時に、光秀が医者だったという、センセーショナルな説まで提起された。それは、事実なのだろうか?

 

 永禄9年10月20日の奥書を持つ『針薬方』(医薬書)には、光秀が田中城(滋賀県高島市安曇川町)に籠城していたとの記述がある。これは、今まで知られていなかったことである。この記述を根拠にして、光秀が琵琶湖西岸部を支配していたとの指摘もあるほどだ。はたして、それは本当なのか?

 

 その前に、『針薬方』について述べておく必要があろう。

 

 『針薬方』とは、光秀が田中城に籠城していた際に沼田勘解由左衛門尉(ぬまたかげゆざえもんのじょう)が口伝され、米田貞能(こめださだよし)が近江坂本(滋賀県大津市)で写した。義昭は国人衆に味方になるよう呼び掛けた手紙を書いたが、結局、出すことがなかった。『針薬方』は、その手紙の裏に書かれたものである。つまり、反古紙を利用したものだった。

 

 『針薬方』の内容が光秀から沼田氏に口伝されたので、光秀は医者だったと指摘されている。

 

 沼田勘解由左衛門尉は熊川城(福井県若狭市)に本拠を置き、足利義昭に仕えていた。米田貞能は医術によって、足利義輝・義昭に仕え、のちに肥後細川氏の家老になった。貞能は永禄9年(1566)に義昭が越前に逃避行する際、同行した人物である。つまり、『針薬方』は実在の人物が書写したことが明らかなので、ある意味で良質な史料と言えるのかもしれない。

 

 しかし、内容に疑問がないわけではない。永禄9年8月29日、逃避行中の義昭は矢島(滋賀県守山市)を出発し、9月7日に敦賀(福井県敦賀市)に移動した。10月になると、義昭は越前朝倉氏を頼るべく、受け入れについて交渉を開始していた。そのような緊迫した情勢のなかで、米田貞能がわざわざ敦賀から坂本へ移動し、医薬書を書き写す必然性があったのかということである。

 

 加えて、光秀が田中城に籠城していたという史実を裏付ける史料は、ほかに存在しない。ましてや、光秀が琵琶湖西部を支配していたという指摘があるが、当該地域に光秀が発給した文書は1点も見いだせない。さらに、『針薬方』の記述内容は、戦国時代の近江の状況とかけ離れているとの指摘もある。

 

 したがって、現在では『針薬方』の記述には疑問点が多く、史料性に疑問があると指摘されている。それらの指摘を踏まえると、光秀が田中城に籠城したというのは、まったく根拠に欠けていると言わざるを得ない。光秀が籠城したという事実は、そもそもなかったのではないだろうか?

 

 もし、光秀が田中城に籠城していた、あるいは琵琶湖西岸を支配していたというならば、信頼できる一次史料(当時の古文書や日記など)で裏付ける必要があるだろう。

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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