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明智光秀は近江の出身だったのか? 後編

歴史研究最前線!#014

出自不明の武将は当時でも多かった


坂本城址(滋賀県大津市)近くにある明智光秀像

 前回の続きで、光秀が近江佐目の出身であるか否かを考えてみたい。結論を言えば、この説はまったく信憑性に欠けるといわざるをえない。

 

 光秀の出身地については、この例に限らず、質の劣る後世の編纂物や系図などに書かれている。『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』もご多分に漏れず、良質な史料とは言えない。もちろん、地元に伝わる伝承の類などもあてにならない。

 

 後世に成立した二次史料は、おおむね何らかの意図があって編纂される。この場合の意図ははっきりしないが、光秀と近江の土豪との関連性を考慮すべきかもしれない。たとえば、次に示す逸話が記載されている。

 

 天正10年(1582)、光秀は本能寺の変で織田信長を討ち、その後の山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉と対決して敗北した。その際、近江の土豪らが光秀の援軍に駆け付けた。近江の土豪らが援軍に馳せ参じたのは、光秀が近江で生まれたからであるという。しかし、一次史料(同時代の古文書や日記など)によって、近江の土豪らが光秀の応援にやって来たことを裏付けることはできない。

 

 また、光秀は「大黒天を信仰すれば1000人を従える大将になれる」と言われたが、「1000人では物足りない」と大黒天を捨てたという逸話を載せている。光秀の野心家の一面をうかがわせるエピソードであるが、事実か否かは不明である。いかにもドラマチックな話である。

 

 そもそも『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』の記述はあやふやで、具体的ではない。光秀の系譜すらも明らかにしていない。父の名前も書いていないし、明智十左衛門の2、3代後に光秀が誕生したと記すだけである。いつ頃まで、光秀が佐目にいたのかもわからない。

 

 ましてや、現存する一次史料に光秀が近江出身だったことを示すものはない。多賀大社(滋賀県犬上郡)の『多賀神社文書』のなかに天正10年6月6日付の明智光秀禁制が残っているが、これは光秀が近江で生まれたことの証明にはならない。本能寺の変に関連して、発給されたに過ぎない。確かな史料で裏付けできない以上、光秀を近江佐目の出身と確定するわけにはいかないだろう。

 

 当時にあって、光秀のように出自がはっきりしない武将は多かった。黒田官兵衛でさえ、はっきりと先祖の姿を確認できるのは祖父の代までである。たしかに光秀の出自を示した『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』は、ほかの系図類よりも成立は早いかもしれないが、先述したとおり、記述内容は納得しうるものとはいえない。

 

 二次史料であっても、目新しいことが書かれていると、十分な検証を踏まえず、すぐに飛びつく傾向が多く見られる。史料の性質を見極め、慎重になることが重要であると思う。特に、二次史料の場合は、そうであろう。

 

 もちろん『江侍聞伝録』『淡海温故秘録』がダメな史料であるとか、光秀に関する逸話・伝承はすべて出鱈目だと切り捨てるわけではない。文化史的な観点から光秀が近江佐目で生まれたという説の背景や意味を検討すれば、新たな価値を見出すことが可能であることを申し添えておきたい。

 

(完)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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