明智光秀は近江の出身だったのか?【前編】
歴史研究最前線!#013
複数の二次史料が示す光秀の「近江出身」説

坂本城址(滋賀県大津市)近くにある明智光秀像
明智光秀の出自については、美濃の土岐明智氏出身をはじめ、いくつかの説がある。近年クローズアップされているのが、光秀が近江(現・滋賀県)の出身であるという説である。新聞報道などで瞬く間に広がっていったので、きっと耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。
根拠になった史料は、『江侍聞伝録』(寛文12年・1672成立)、『淡海温故秘録』(貞享年間・1684~88成立)という編纂物である。ともに光秀の没後から、約100年後に成った二次史料である。二次史料とは後世になって編纂された史料のことで、地誌のほか軍記物語や系図などが該当する。
成立が早い方の『江侍聞伝録』は、中世における近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記した史料である。『淡海温故秘録』は、地誌(郷土誌などの類)である。光秀の出自について書かれている内容は、『江侍聞伝録』も『淡海温故秘録』ほぼ同じである。次に、内容を紹介しておこう。
美濃に住んでいた土岐氏の流れを汲む明智十左衛門なる人物は、主の土岐成頼(ときしげより)のもとから出奔し、近江国へとやって来た。やがて、明智十左衛門は近江守護の六角高頼の庇護を受け、佐目(現・滋賀県多賀町佐目)の地に安住した。それから2・3代あとになって、光秀が佐目の地で生まれたという。ただし、出生した年は不明である。
美濃守護だった土岐成頼は嘉吉2年(1442)に誕生し、明応6年(1497)に没した。一方の近江守護の六角高頼は生年こそ不詳であるが、没年は永正17年(1520)なので、二人はほぼ同時代の人物と考えてよい。年代については矛盾がない。つまり、明智十左衛門が近江にやって来たのは、15世紀後半ということになろう。
この話が事実ならば、光秀の誕生地は滋賀県多賀町佐目ということになる。ちなみに、佐目の地には、「十兵衛屋敷の跡地」などの関連史跡があり、光秀にゆかりがあるという「カミサン池」(池の跡)が残っている。つまり、佐目地域に光秀関連の史跡が残る理由は、『江侍聞伝録』などで裏付けられたということになる。
また、地元には、光秀に関する逸話・伝承の類も伝わっているという。それらを総合して、一部の研究者の間では、光秀が近江佐目の出身であることは疑いないと太鼓判を押す向きもある。もはや「光秀佐目出身説」は、有力な説の一つになりつつある。果たして「光秀佐目出身説」は、事実と考えてよいのだろうか。
(続く)