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上杉家家臣・藤田信吉の出奔と会津征討【後編】

歴史研究最前線!#012

信吉が出奔に至った3つの理由とは

信吉が生まれた埼玉県長瀞町に建てられた武蔵天神山城の模擬天守

 前回、藤田信吉の出奔について二次史料で確認したが、ほかの一次史料で確認できるのだろうか。

 

 最初に挙げておきたいのが、「直江状」の記述である。直江状とは、4月14日付で直江兼続が家康のブレーンである西笑承兌(さいしょうじょうたい)に宛てた書状である。「直江状」の真贋については議論があるが、挑戦的な文面が家康を激怒させ、会津征討につながったといわれている。

 

 「直江状」の記述によると、同年3月中旬に信吉が上杉家を退去すると、江戸を経て京都に入り、景勝に謀反の意があると報告したと書かれている。内容は簡潔ではあるが、『会津陣物語』と同じような記述が確認できる。

 

 ほかには、『覚上公御書集』という史料にも、信吉出奔の経緯が書かれている。『覚上公御書集』とは、米沢藩に残された上杉景勝の書状の写を収録した史料集で、信頼度が高いと評価されている。

 

 こちらは信吉が出奔した日付が2月14日となっており、約1ヵ月早くなっているが、それは転写の際の誤写であると推測される。信吉は家臣や妻子を引き連れて上杉家を出奔すると、家康がいた下野国那須に逃げ込んだとある。記述内容は多少異なるが、信吉が上杉家を退去し、徳川家に駆け込んだことは同じである。

 

 信吉が上杉家を出奔した理由については、どのように考えたらいいのだろうか。最近の研究では、信吉が大身の新参家臣として、兼続に対抗しうる地位を獲得しながらも、次のような3つの背景があったのではないかと考えられている。

 

 第1に景勝の会津移封後、信吉は津川(福島県阿賀町)という辺境の地に追いやられたこと、第2に会津移封後、直江兼続による執政体制が強化されたこと、第3に慶長2年の家中改易後、信吉と友好的関係にあった国人らは景勝・兼続体制に従属させられたこと、以上の3つである。

 

 これらの理由から、信吉は上杉家中で孤立していったと指摘されている。そして、信吉が上杉家を退去して、徳川家に仕えたのは、自らの能力を生かせる場を探し求めた結果ではないかと考えられている。当時、一般的に新参家臣と古参家臣が家中で対立することが珍しくなかった点を考慮すると、妥当な見解であるといえよう。

 

 島津氏にしても、宇喜多氏にしても、家中の統制にはかなり苦しんだ。上杉氏にも同様の事態が発生した可能性があろう。その要因の一つが家康への対応であり、家中においてかなりの議論がなされたと考えられる。そうした状況下において、居づらくなった信吉が上杉家を出奔し、家康を頼りにしたと推測されよう。

 

 なお、関ヶ原合戦終了後、信吉は下野国内に1万3千石を与えられた。この恩賞は、東軍への貢献が認められたということになろう。

 

【主要参考文献】

渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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