×
日本史
世界史
連載
エンタメ
誌面連動企画

明智光秀は近江田中城を居城とした医者だったのか? 後編

歴史研究最前線!#016

光秀は医療が発達していた越前の地で医薬の知識を得た?


坂本城址(滋賀県大津市)近くにある明智光秀像

 前回、光秀が田中城(滋賀県高島市)を居城とし、琵琶湖西岸部を支配した可能性は低いと指摘した。では、光秀が医者だったという説は、どうなのだろうか。実は、『針薬方』(しんやくほう)の記述と光秀が越前朝倉氏に仕えていたとの説を絡めて、驚くべき説が提唱された。

 

 前回も述べたとおり、医薬書の『針薬方』の内容が光秀から沼田氏に口伝されたので、光秀は医者だったと指摘されている。テレビの歴史番組では、光秀が産婦人科医だったという説まで披露されている。

 

 当時、光秀が仕えていたという朝倉氏の本拠・一乗谷(福井市)には、多くの文化人が来訪していた。そのなかには、医師も含まれていた。そのような環境下で、光秀は越前で医薬の知識を得たというが、疑わしいといわざるをえない(なお、光秀が朝倉氏に仕えていたという説も疑問があるが、機会を改めて論じたい)。

 

 たとえば、傷薬の「セイソ散」が「越州朝倉家之薬」と書かれているのは事実であるが、なぜか「朝倉家の秘薬」と飛躍して解釈された。「セイソ散」とは「生蘇散」のことと考えられ、中世後期に成立した医学書『金瘡秘伝下』には「深傷ニヨシ」と書かれている。合戦などで傷を負った武将が用いていたのだろう。

 

 問題なのは「セイソ散」を「朝倉氏の秘薬」などと紹介していることだ。セイソ散は一般的に知られていた薬であり、特別なものではなかった。「越州朝倉家之薬」を解釈するなら、「朝倉氏が持っていた薬(=セイソ散)」程度の意味だろう。「セイソ散」が「朝倉家の秘薬だった」という指摘には飛躍があり、首を傾げざるを得ない。

 

 また、越前では医療が発達していたとの指摘にも疑問が残る。当時、一乗谷に医師が滞在していたのは事実である。しかし、それをもって、朝倉氏が薬剤を開発しており、一乗谷では医療がかなり普及していたとの指摘は大きな飛躍があり、とても十分な裏付けがあるとは思えない。

 

 というのも、当時の医学は民間療法レベルで、薬草などを調合して服用するのが一般的だった。医者はいたが、診療を受けられるのは、天皇や公家そして戦国大名くらいだった。戦国武将は合戦に出陣し、ケガを負うリスクが高いのだから、民間療法レベルの医学知識は普及していたはずだ。仮に、光秀に医術の心得があったとしても、その程度のものだったのではないだろうか。

 

 そもそも『針薬方』の記述内容には、前回述べたとおり疑問がある。本当に、光秀が田中城で『針薬方』の内容を口伝したのか検証する必要があるだろう。『針薬方』という史料の記述から、想像を膨らませるのは危険である。あまりに裏付けが乏しく、とても支持できる説ではない。もっと慎重に分析すべきではないだろうか。

 

(完)

KEYWORDS:

過去記事

渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

最新号案内

歴史人 10月号

日本史の偉人200

日本史の偉人たちは、国難や危機をどのように乗り越えてきたのか?