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敗者の大坂の陣 武将・仙石秀範はなぜ寺子屋の先生になったのか? 前編

歴史研究最前線!#017

父子で東軍・西軍に分かれた関ヶ原の戦い

仙石秀範の父・秀久の居城であった小諸城の大手門(長野県小諸市)

 慶長19年(1614)から翌年にかけて、徳川氏と豊臣氏は大坂の陣で激しい攻防を繰り広げた。豊臣方に参陣した牢人の中には、寺子屋(私塾のようなもの)を開き、密かに復権を狙う者もあった。その一人が仙石秀久の次男・秀範である。秀範は、『大坂陣山口休庵咄(きゅうあんはなし)』には、仙石豊前という名前で登場する。

 

 『大坂陣山口休庵咄』は、豊臣家の家臣・山口休庵が大坂冬の陣における城兵の働きを詳しく記しており、比較的信頼の置ける史料として知られている。ただ、編纂物であるので、すべてを信用するわけにはいかない。

 

 では、仙石秀範とは、いかなる人物なのだろうか。

 

 仙石秀範は多くの史料で仙石豊前と表記され、宗也(そうや)と書かれることがある。父の秀久は美濃国の出身で、最初は織田信長に仕えた。信長の没後は豊臣秀吉に仕官したが、天正14年(1586)の九州征伐における戸次川(へつぎがわ)の戦いの敗因を作り失脚。一時は高野山(和歌山県高野町)に蟄居を命じられた。その後、家康を頼って復活し、信濃国小諸城(長野県小諸市)主となった。

 

 慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発すると、秀久は家康の率いる東軍に属した。家康の恩顧があったからだろう。そして、徳川秀忠の軍勢に加わり、中山道から関ヶ原を目指したのである。その先には、真田昌幸・信繁が籠もる上田城(長野県上田市)が行く手を阻もうとしていた。

 

 案の定、秀忠は真田昌幸・信繁との戦いに苦戦し、上田城で食い止められた。その後、秀忠は家康の命に応じて関ヶ原に急行したが、ついに合戦には間に合わなかった。これは大失態であり、秀忠は父・家康に厳しく叱責されたという。

 

 この窮地に秀久は家康にうまく弁明を行い、秀忠を救ったといわれている。その功績によって、秀久は秀忠から重用され、但馬国出石(兵庫県豊岡市)に5万8千石を与えられたのである。

 

 秀久には秀範のほかに、久政(のちの忠政)という跡継ぎがいた。しかし、運悪く久政は幼少時に失明したため廃嫡(はいちゃく)となった。そうした事情もあって、仙石家の家督は次男の秀範が代わりに継承することになっていた。

 

 ところが、秀範は関ヶ原合戦で西軍に与したため、仙石家から追放され、以後は牢人となる。これが秀範の不運のはじまりであった。結局、秀範が後継者の座から降りたので、再び久政が仙石家の家督を継ぐことになったのである。

 

 では、牢人中の秀範は、どのような生活を送っていたのだろうか?

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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