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武将・仙石秀範はなぜ寺子屋の先生になったのか?【後編】

歴史研究最前線!#018

秀範が私塾を京都で開いた理由

仙石秀範の父・秀久の居城であった小諸城の大手門(長野県小諸市)

 前回の続きで、秀範の牢人生活をたどることにしよう。『土屋知貞(ともさだ)私記』によると、秀範は父から勘当され牢人となり、長年にわたり豊臣秀頼の扶持を受けていたという。少なくとも豊臣家は秀範を見放さなかったようで、これこそが大坂の陣で秀範が豊臣方に与する理由だったのだろう。

 

 その後、牢人生活を送っていた秀範の様子は、『大坂陣山口休庵咄』に次のように記されている。

 

  京新町通り二條より上の場所で、宗弥(そうや)と名乗って、手習いの子供を取っていた。

 

 牢人生活を送る秀範は、現在の京都市中京区付近で私塾を開き、何とか生活をしていたのである。この間、秀範は各地の大名家を訪問し、積極的に仕官活動をしていなかったようである。それはなぜだろうか。

 

 そもそも関ヶ原合戦で西軍に与して牢人となった者は、徳川家への反逆者である。そうした人物を各大名家が召抱えることは、基本的にありえないことであった。それゆえ、牢人が各地の大名家を訪ねることは、ほとんど意味がなかったのである。しかし、牢人が徳川家康の許しを得られれば、話は別である。

 

 秀範が京都に住んだのは、地方でなく京都で仕官運動を行おうとしたからであろう。当時、伏見城には徳川家康が在城することも多く、その周辺には大名屋敷があった。そこで、秀範は生活のために私塾で子供を教え、その間を利用して家康の許しを得ようとした。家康の許可を得た場合は、大名への仕官活動を計画していたと推測される。

 

 しかし残念なことに、秀範の仕官活動は成功することがなかった。秀範だけでなく、多くの牢人が同じ結果に終わったのである。もう一つの仕官が成功しなかった理由を挙げるならば、おおむね関ヶ原合戦で大戦争の時代は終わり、大名家には人を新たに召し抱える財政的な余裕がなかったという状況もあった。

 

 慶長19年(1614)10月に大坂冬の陣が勃発すると、秀範は秀頼の求めに応じて大坂城に入城した。有象無象の牢人衆の中にあって、家柄・実績とも申し分ない秀範は、大いに期待されたはずである。ただし、大坂の陣における秀範の活躍ぶりは、それほど伝わっていない。

 

 翌年5月の大坂夏の陣で豊臣方が敗北すると、秀範は合戦の最中に討ち死にしたという。あるいは丹波へ逃亡したという説もある。子の長太郎はまだ10歳の子供であったが、逃亡先の伯耆国(ほうきのくに)で捕らえられた。そして、元和元年(1615)閏6月22日、長太郎は京都の六条河原で斬首され、梟首(きょうしゅ)されたのである。

 

(完)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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