後藤又兵衛はなぜ黒田家を出奔したのか?【前編】
歴史研究最前線!#023
又兵衛の謎に包まれた生涯を追う

奈良県宇陀市の「又兵衛桜」。現地には後藤又兵衛が大坂夏の陣の後も実は生存しており、隠遁生活を送ったという伝説が残っている。
大坂の陣で豊臣方に与した武将としては、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が有名である。もともと又兵衛は黒田家の家臣であり、「黒田二十四騎」「黒田八虎」の1人であった。しかし、又兵衛の関係史料は少なく、その生涯には不明な点が多い。
又兵衛の伝記については、貝原益軒『黒田家臣伝』と黒田長政条書写(「吉田家文書」)が詳しい。以下、それらの史料をもとに、又兵衛の生涯を探ろう。
後藤家は鎌倉時代から播磨に本拠を置く名門であり、又兵衛が後藤家の流れを汲んでいるのは疑いない。又兵衛の父は新左衛門尉(しんざえもんのじょう)という。ただ、実名や生年は不明であり、又兵衛の生年もわからない。
最初は三木城(兵庫県三木市)主の別所氏に仕え、のちに御着城主(兵庫県姫路市)の小寺政職(まさもと)のもとに仕官した。政職が小寺家の家督を継承したのが永禄初年の段階なので、それ以降のことになろう。
しかし、新左衛門尉は政職に仕官して間もなく、病死してしまったようである。
幼少の又兵衛は路頭に迷ったので、哀れんだ黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)が又兵衛を引き取り養育したという。官兵衛は、小寺氏に仕えていた時期があった。
ところが、又兵衛の伯父・藤岡九兵衛(ふじおかきゅうべえ)なる者が、官兵衛に謀反を起こしたといわれている。
結局、官兵衛は九兵衛を追放処分とした。このとき又兵衛も縁者であったので、同じく追放処分を受けた。その後、又兵衛は仙石秀久(せんごくひでひさ)のもとで過ごしたといわれている。これが、最初に又兵衛が送った牢人生活であった。
その後、官兵衛は又兵衛を呼び戻し、近侍させることは許可しなかったが、家臣の栗山利安(くりやまとしやす)に預けて100石の知行を支給した。官兵衛は又兵衛の才覚を評価し、活躍の芽を摘むのを惜しんだのだろう。
とはいえ、ここまでの話の裏付けとなる一次史料はなく、史実か否かは不明である。
以後、又兵衛は才能を発揮し、家中で重きを置かれた。又兵衛は慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦でも活躍したといわれ、主の長政は多大なる軍功が認められ、筑前国の名島(なじま)に52万3千余石を与えられた。
その際、又兵衛は、筑前国の小(大)隈城(福岡県嘉麻市)に約1万6千石を与えられたという。破格の扱いである。復活した又兵衛は、順風満帆であった。
その後、又兵衛はどうなったのだろうか?
(続く)