毛利勝永はなぜ土佐藩を去ったのか?【前編】
歴史研究最前線!#025
関ヶ原合戦で敗北し、土佐の山内一豊の元に預けられたが…

清凉寺(京都市)にある、大坂の陣で亡くなった武将たちの供養碑と豊臣秀頼の首塚。
大坂の陣で豊臣方に身を投じた牢人衆の中には、もともとは大名クラスの者も存在した。その1人として、毛利勝永(もうりかつなが)の名を挙げることができる。はたして勝永は、いかなる来歴を持つ人物なのであろうか。
勝永は勝信の子として、天正5年(1577)に誕生した。勝永の父は勝信(吉成とも)といい、もともとは秀吉の配下にあって黄母衣衆(きほろしゅう)を務めた人物である。黄母衣衆とは、主君を守る親衛隊のようなものである。毛利氏の本姓は森であったが、中国地方の大名・毛利氏にならって毛利に改姓したという。
勝信は秀吉のもとで九州平定に軍功を挙げ、天正15年に豊前小倉に6万石を与えられた。文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも出陣し軍功を挙げた。ここまでの毛利氏は順調であったといえよう。
ところが、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦では西軍に属して敗北を喫した。そして、改易(かいえき)処分を受けると、肥後の加藤清正のもとに送られたが、やがて土佐の山内一豊(かずとよ)に預けられたのである。このように、改易された大名が他家に預けられる例は多い。
このとき、勝永も父とともに山内家のもとに向かった。山内家では、意外なことに厚遇されたという。そもそも2人は仲が良かったようである。しかし、父の勝信は失意のうちに土佐で亡くなった。慶長16年のことである。
その間、土佐に在国中の勝永自身は、二男、一女に恵まれたという。平凡ながらも、平穏無事な生活を送っていたようである。そうした状況下の慶長19年、大坂の陣が近くなると、思いがけず秀頼(ひでより)からの出陣命令が届いたのである。
命令を受け取った勝永は、大いに悩んだことであろう。山内家の恩義を考えると、安易に秀頼のもとに馳せ参じるわけにはいかない。ただ、このまま山内家に居候のような形でいても、将来の展望は開けない。
そのように考えに考えた末、本来、勝永は徳川方の山内家に従うべきところであるが、それを断って子の勝家と共に豊臣方へ身を投じたのである(『土屋知貞私記』)。勝永は4500人の軍勢を率いて、秀頼方に馳せ参じた。
その背景には、いかなる事情があったのだろうか?
(続く)