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敗者の大坂の陣 後藤又兵衛(ごとう またべえ)はなぜ黒田家を出奔したのか? 後編

歴史研究最前線!#024

問題視された又兵衛の人間関係

奈良県宇陀市の「又兵衛桜」。後藤又兵衛が大坂夏の陣の後も実は生存しており、隠遁生活を送ったという伝説が現地に残っている。

 又兵衛は黒田家中で大出世を遂げたが、その後は暗雲が立ち込めることになる。

 

 又兵衛は他家と書状を遣り取りしており、特に豊前国小倉(福岡家北九州市)の細川氏との交際が問題視された。黒田長政は又兵衛に交際を止めるよう注意し、互いに誓紙も交わした。ところが、その後も又兵衛は細川氏と交際を続け、さらに播磨国姫路(兵庫県姫路市)の池田輝政との関係も明らかになった。

 

 以上のことが原因で又兵衛は長政との関係が悪化。黒田家を去り、牢人になったのである。黒田家を去った又兵衛は、居所もなく1、2年ほど放浪生活を送ったが、やがて池田輝政から声がかかり、客分として経済的な援助を受けたという。こうして又兵衛は播磨に居を定めたのであった。

 

 この噂を聞いた長政は、徳川家康の家臣・村越茂助(もすけ)らを通して、輝政に又兵衛を追放するように申し入れたが、それは無視された。このように、家中を去った者が再仕官できないよう、申し入れることを奉公構(ほうこうがまえ)という。

 

 いったん輝政から申し入れを断られた長政は、その後も繰り返し又兵衛を追放するよう要請を行った。慶長16年(1611)に徳川家康が上洛すると、再び村越茂助らを通して、輝政に又兵衛を放逐するように申し入れた。輝政は承諾したが、以後も引き続き又兵衛は播磨に住んだ。

 

 そこで、長政は再び池田利隆(輝政の嫡男)を通して申し入れを行い、ようやく又兵衛は池田家から追放されたのである。慶長18年1月に輝政が亡くなっているので、それ以降のことであろう。

 

 追放された又兵衛は、滝川忠征(ただゆき)と三好房一(ふさかず)を通して、黒田家に仕官したいと申し出た(『芥田家文書』)。長政は仕官を許すことにしたが、又兵衛の言動に不審な点があったため、この話は実現することがなかった。

 

 長政の手は又兵衛だけでなく、堺(大阪府堺市)に住む子の左門と肥後国の加藤氏のもとにあったその弟・彦六にまで及び、二人は黒田家に連れ戻された。また、播磨にあった又兵衛の母や親類縁者も連れ戻し、豊前小倉に住まわせたという。親類縁者を強制的に連れ戻したのは、又兵衛が大坂城に籠城したからであった。

 

 ここまで長政が徹底したのは、厚遇したにもかかわらず、命令に従わず出奔したことにあろうと考えられる。さらに又兵衛が黒田家を去って、他家で再仕官することは自身のメンツがあり、決して許せなかったということもあろう。

 

 こうして黒田家を出奔し、豊臣方に与した又兵衛であったが、慶長20年5月の大坂夏の陣で無念の死を遂げるのである。

 

(完)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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