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塙直之はなぜ主家を捨てて諸国を放浪し続けたのか?【前編】

歴史研究最前線!#027

塙団右衛門でも知られる豊臣方の武将

 

大阪府泉佐野市にある塙直之の墓。塙団右衛門直之の17回忌に、紀州藩士の小笠原作右衛門が彼の武勇を讃えて建立したとされる。

 

 牢人たちの中には、あえて主家を捨てて出奔し、新たな仕官先を求めて豊臣家に参上した者もあった。自由契約ではない。今でいうならば、「フリー・エージェント」とでもいうような存在といえよう。

 

 彼らは主人と、意見の衝突と仲違いを繰り返しながら、転々と主を変えて仕官した。その代表例として、すでに後藤又兵衛(ごとうまたべえ)を取り上げた。ここでは、豊臣方の武将として名を知られる、塙(ばん)直之について考えてみよう。

 

 普通は塙直之と呼ぶよりも、塙団右衛門(ばんだんえもん)と呼ぶほうが知られているかもしれない。直之の初名は長八といい、のちに団右衛門と称したという。ただ、直之の出自などについては、不明な点が多い。

 

 直之は、尾張葉栗(おわりはぐり・愛知県一宮市)の出身といわれている。織田信長の家臣には、塙(原田)直政なる者がいるが、その一族であると推測される。当初、直之は信長に仕えていたが、その死後は豊臣秀吉の部将・加藤嘉明に仕官した。ただ、その間の直之の動向に関しては、不明な点が多い。

 

 直之の出自には異説がある。『土屋知貞私記』という史料によると、直之は上総国養老(千葉県大多喜町)の出身で、上総・下総の名門・千葉氏の流れを汲むと書かれている。この説が正しいとするならば、たしかな血筋ということになろう。

 

 その後、直之は玉縄城(神奈川県鎌倉市)主・北条綱成(つなしげ)に仕え、天正18年(1590)に小田原征伐で北条氏が滅亡すると、嘉明の家臣になったといわれている。いずれにしても、最終的に嘉明に仕えたのはたしかである。

 

 実は直之の生年に関しても、ほとんどわかっていない。直之が亡くなったのは、元和(げんな)元年4月の大坂夏の陣の最中である。『土屋知貞私記』には60歳くらいの年齢であったと記している。逆算すれば、おおむね弘治元年(1555)頃ということになろう。

 

 ただし、一般的に直之の生年は永禄10年(1567)とされているので、十余年もの大きな隔たりがある。

 

 その後、直之はどうなったのだろうか。

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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