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敗者の大坂の陣 塙直之(ばん なおゆき)はなぜ諸国を放浪したのか?(後編)

歴史研究最前線!#027

関ヶ原合戦でもっとも重い軍令違反“抜け駆け”を犯す

 

大阪府泉佐野市にある塙直之の墓。塙団右衛門直之の17回忌に、紀州藩士の小笠原作右衛門が彼の武勇を讃えて建立したとされる。

 

 前回の続きである。直之は嘉明のもとで、めきめきと頭角をあらわすと、やがて鉄砲大将に抜擢され、知行1000石を与えられた。朝鮮出兵でも、水軍を率いて敵軍をたびたび撃破し活躍した。その兜には「天然」という象嵌(ぞうがん)が施されたという。

 

 朝鮮出兵においては、直之の有名な逸話が残っている。嘉明は、青地の絹に日の丸を描いた旗を作成した。直之はこの旗を背中に立てて、大いに武功を挙げ、恩賞として350石を与えられたという。この話は『武功雑記(ぶこうざっき)』に書かれたものであるが、史実とはみなし難い。『武功雑記』は史料としての質が落ちる。

 

 こうして直之は順調な日々を送っていたが、問題が起こったのは、関ヶ原合戦のときである。直之は功を焦ったのか、1人で鎗を持って突撃するという、軍令違反を犯したのである。当時、抜け駆けはもっとも重いルール違反であった。軍法には、そうした規定が必ずある。

 

 この軍令違反をめぐって直之と嘉明は言い争い、それが原因で直之は加藤家を出奔した。むろん理由はそれだけでなく、処遇に関する不満があったという。いずれにしても、直之と嘉明はウマが合わなかったようだ。

 

 直之は加藤家を去るに際して、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」という漢詩を残したという。意味は「小さな水に留まることなく、鴎(かもめ)は高く飛ぶ」というものであり、直之が将来に大きな飛躍を期したことをうかがわせる。

 

 牢人になって以後、直之は小早川秀秋(ひであき)、松平忠吉(ただよし)に仕官したが、ともに中途で主従関係を破棄された。そして、福島正則(まさのり)に仕官したが、旧主である嘉明の奉公構(ほうこうかまい)によって職を失った。後藤又兵衛の場合と同じである。小早川秀秋、松平忠吉から主従関係を破棄されたことも、嘉明による奉公構による可能性が極めて高い。

 

 直之は将来を悲観したのか、のちに京都妙心寺(みょうしんじ・京都市右京区)に入り出家して、鉄牛という法名を名乗ったという。この間の直之の動向は不明であるが、ほかの牢人たちと同様に、仕官するために京都で過ごしたのではないだろうか。妙心寺にいたというのは、カムフラージュかもしれない。そして、大坂の陣が勃発すると、秀頼から招かれ大坂城に入城したのである。

 

 慶長20年(1600)4月、直之は浅野長晟(ながあきら)の軍勢と和泉樫井畷(大阪府泉佐野市)で戦い、無念の戦死を遂げたのである。

(完)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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