薄田兼相はなぜ「橙武者」と呼ばれたのか?【前編】
歴史研究最前線!#028
諸国を修行して鞍馬八流を習得 剣術・気合の術に優れた謎の人物

京都府宮津市にある「岩見重太郎試し切りの石」。薄田兼相と同一人物とされる剣豪・岩見重太郎が、父の仇である三人を追って宮津を訪れ、仇をかくまっていた京極家の許しを得て仇討ちをする時に、刀の切れ味を試したとされる。
豊臣方の主要な牢人衆としては、薄田兼相(すすきだかねすけ)がいる。兼相というよりも、隼人正と称したので薄田隼人といったほうがわかりやすいかもしれない。彼は、ユニークな経歴を持つ人物として知られている。
兼相は、小早川隆景(たかかげ)に仕えた薄田重左衛門の子であるといわれている。生年はわかっておらず、出身地も山城国または筑後国とされている。出自には不明な点が多く、まさしく謎の人物である。兼相は鞍馬八流をマスターし、剣術や気合の術に優れていたと指摘されている。
兼相は諸国を修行し、鞍馬八流の技をマスターしたという。旅の間、狒々(ひひ・老いた猿の妖怪)を退治や仇討ちをするなど、多くの逸話を残している。しかし、それは伝説の人物・岩見重太郎の話であって、史実ではないと考えられている。
ただし、兼相は大きな刀を自由に操り、それだけのたくましい肉体を誇っていたと伝わっている。
慶長2年(1597)に主君の小早川隆景が亡くなると、兼相は牢人生活を送ったといわれている。主君の死により、小早川家を追放されたのだろうか。しかし、隆景に仕えていたことは誤りと指摘されている。
慶長3年1月、兼相は伏見の様子を知らせるため、朝鮮蔚山(うるさん)に出兵中の浅野幸長に書状を送っている(『浅野家文書』)。つまり、兼相は豊臣秀吉に仕官していた可能性が高く、牢人ではなかったのかもしれない。
その事実を裏付けるかのように、『慶長十六年禁裏御普請帳』という史料には、兼相が秀頼の家臣(大坂衆)として、3000石を知行していたと記されている。つまり、慶長3年8月に秀吉が亡くなったあとも、引き続き豊臣家に仕官したことになる。そうなると、従来の兼相が牢人であったという説は、訂正する必要があろう。
ところで、これまで兼相は豪傑であるといわれながらも、大坂の陣においては活躍が認められない。強調されるのは、大失態ばかりである。実際のところはどうだったのだろうか。
(続く)