明石掃部とはいかなる人物だったのか?【後編】
歴史研究最前線!#031
大坂冬の陣の直前に約4千500の兵を率いて大坂城に入城

全登が参戦した、大坂夏の陣道明寺合戦の史実を伝えるために建立された慰霊碑(大阪府藤井寺市)
前回の続きである。実は黒田長政(ながまさ)もキリシタンであり、明石掃部(あかしかもん)以外にも、多くのキリシタン牢人を招いていたという。しかし、筑前での掃部の動向は不明であり、禁教が徹底される中で、厳しい状況にあったのは確かなようだ。
似たような状況は、ほかの宇喜多氏のキリシタン関係者にも及んでいた。『越登賀三州志』によると、慶長19年(1614)3月に加賀藩前田家から追放されたキリシタン武士の中には、宇喜多休閑(きゅうかん)の名前がある。
休閑は、おそらく宇喜多氏の縁者であろう。秀家の妻・豪姫(ごうひめ)が前田利家(としいえ)の娘だったので、その縁を頼ったと考えられる。同じ頃、秀家に仕えたグュザ(Guiuzza)なる人物と3人の子が前田家を追放され、津軽に送られた。前田家の対応は、禁教令を受けたものであった。休閑とグュザは、同一人物である可能性が高い。
宇喜多氏配下の明石掃部らは、キリスト教関係者や姻戚関係を頼りにして、有力者に庇護(ひご)を求めた。関ヶ原合戦直後は、まだキリスト教に寛容なところがあり、彼らを受け入れるキリシタン大名も存在した。
ところが、慶長14年に岡本大八(おかもとだいはち)事件が起こると、禁教がさらに徹底され状況は一変した。こうしたキリシタン牢人は、大坂の陣で豊臣方に与することになる。
『大坂陣山口休庵咄』によると、慶長19年の大坂冬の陣の直前、明石掃部は約4千500の兵を率いて大坂城に入城した。それらの兵については、「出所を知らず」とあるので、多くは入城に際して急遽集められたのだろう。
『土屋知貞私記』によると、掃部は「播磨者」とされており、秀吉直参で10万石を知行していたというが、この記述は事実と異なっており問題がある。
関ヶ原合戦で敗北後、掃部は長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)と同じく秀頼から扶持(ふち)を受け籠城したという。つまり、掃部は豊臣方から、大きな期待をもって迎えられた。年齢は60歳ぐらいであったと伝わる。掃部は大坂の陣で活躍したが、戦後の行方は不明である。
(完)