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大野治長・治房兄弟は豊臣家のガンだったのか?【後編】

歴史研究最前線!#033

淀殿との密通による悪評や豊臣家滅亡の戦犯扱いも、実のところは豊臣家の忠臣だった⁉

大野治長が普請に携わった伏見城。当時の城は慶長伏見地震によって倒壊し、その後何度かの廃城を経て、現在は昭和39年(1964)に建設された模擬天守が残る。

 前回の続きである。ところで、後世にわたって、治長(はるなが)には悪い評価がされてきた。

 

 絶えず治長と淀殿(よどどの)との間には、不穏なが噂が流れた。たとえば、慶長4年(1614)には、治長は淀殿と密通している風聞が広まっている(『萩藩閥閲録』)。同じような話は、『多聞院日記』や『看羊録』にも書かれており、かなり話題になっていたようだ。

 

 『明良洪範』には、秀頼は治長と淀殿の子であると記されている。おそらく、治長と淀殿との密通が根拠となったのだろう。秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も真偽をめぐって論争がある。

 

 治長は大坂の陣に際して、軍議で真田信繁(さなだのぶしげ)ら牢人衆らの献策を拒否し、徳川方を討つ絶好のチャンスを失った。治長の反対により、牢人衆は涙を飲んだ。こうしたことがあったので、治長は豊臣家を滅亡に追い込んだ戦犯と思われている。

 

 現在、治長の評価は変わっていないだろうか。治長は、基本的に豊臣家存続のために奔走しており、徳川家との和睦(わぼく)締結にも心血を注いだ。当時、京都所司代(しょしだい)を務めた板倉勝重(いたくらかつしげ)は、書状の中で治長を次のように評価している。

 

 勝重は治長が粘り強く事に当たり、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかったと記している。悪事とは徳川方からの意見であり、逆に豊臣方から見れば、秀頼のためということになろう。治長は豊臣家の忠臣だったのである。

 

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣で治長は、織田有楽(おだうらく)とともに徳川方と和睦交渉を行い、締結後は人質として子の治徳を徳川方に送った。しかし、盟友である織田有楽は、講和後に大坂城を退城し、治長は苦境に立たされる。

 

 和睦締結後、大坂城の惣構(そうがまえ)や堀などが埋め立てられ、周囲は丸裸になった。慶長20年(1615)に大坂夏の陣がはじまるが、豊臣方はすぐに劣勢に追い込まれた。

 

 治長は秀頼・淀殿の助命に奔走するが、秀頼の妻・千姫(せんひめ)を逃がすのが精一杯であった。同年5月8日、治長は秀頼らとともに大坂城で運命をともにした。

 

 弟・治房(はるふさ)は主戦派であり、和睦を主張する治長と対立した。夏の陣では筒井氏の居城・大和郡山(やまとこおりやま)城を落とし、弟・治胤(はるたね)に命じて和泉国堺へ兵を送り、市街を焼き払わせた。

 

 その後、河内方面に向かったが、樫井(かしい)の戦いで浅野氏の軍勢に惨敗した。同年5月7日、治房は大坂城を脱出したが、京都市中で捕縛され斬首されたのである。

 

 治長・治房は茶人の古田織部(ふるたおりべ)と親交があり、ともに風流を解する人物であったといわれている。

 

(完)

 

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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