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真田の抜け穴伝説 大坂城の普請(土木技術)――「城郭の全て基本のき」こぼれ話

「歴史人」こぼれ話・第11回

慶長19・20年大坂の陣で豊臣方に与した真田信繁

抜け道もあったとされる大阪城

 城の抜け道といえば、慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣で豊臣方に与した真田信繁のものが有名である。「真田の抜け穴」と称されるものだ。

 

 大坂冬の陣が勃発した際、徳川方の前田利常(としつね)は三光神社(大阪市天王寺区)に陣を置いた。その後、前田氏は信繁が籠る「真田丸」を攻撃した。

 

 三光神社の社殿が所在するやや高地の崖の斜面には、ちょうど人が入れるくらいの大きな穴が空いていた。その穴の坑道は西の方向に10メートルほど進み、そこから南の方向に曲がっている。

 

 『大阪府誌』によると、この穴は信繁が大坂冬の陣で真田丸を築いた際、地下から大坂城に通じる穴を掘って、連絡用に使ったといわれている。

 

 現在、残念ながらその穴には鉄格子の蓋がされており、中には入ることは不可能である。

 

真田丸から大坂城までの地下連絡道とは

 

 信繁は真田丸から大坂城までの地下道で往来し、豊臣方の諸将と情報交換をしていたのだろう。ただし、この地下道が使用されたことは、当時の確実な史料で裏付けられない。

 

 では、信繁が真田丸から大坂城までの地下道を作ることで、どのようなメリットがあったのか。小さな地下道では、大人数が移動するには不便だったに違いない。

 

 加えて、当時の土木技術のレベルで、地下道を作るには高度な技術と多大な時間を要したはずだ。また、現代でも高速道路や地下鉄のトンネル工事などには、高い技術が要求される。工事がいい加減なものであれば、地下道が崩れ落ちる危険性があっただろう。

 

 このような「真田の抜け穴」伝説が残ったのは、おそらく人々が信繁のような優れた武将ならば、地下道を掘るという奇策を用いたと考えたのだろう。それゆえ、人々は「真田の抜け穴」と思しき穴を発見すると、信繁が掘ったものと想像したと考えられる。

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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