古墳の築造時期から、古代天皇の崩年が分かる?
「歴史人」こぼれ話・第12回
『日本書紀』『古事記』を修正している天皇陵の存在
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継体天皇の墓である可能性が高い、今城塚古墳から出土した家形埴輪(左向) 大阪市高槻市提供
日本古代史は、とかく謎めいている。それは、『日本書紀』や『古事記』が、何らかの都合によって、適宜、史実を捻じ曲げて書き記したからだろう。その虚偽を浮き上がらせるのに大きな役割を果たすと思われるのが、天皇陵の存在である。真の天皇陵が特定され、その築造年が判るだけでも、およその実像が把握できるからだ。
ところが、考古学者の森浩一氏によれば、宮内庁が治定する天皇陵の多くが、名をあげられた天皇の真の陵墓ではないとか。治定された古墳の築造時期とその天皇の崩年との整合性がとれないからだ。
歴史人2021年6月号で作成した「古墳と天皇の関係年表」でも、まずはここに注目したい。およその推測とはいえ、明らかに時期がずれているものが、いくつか見つけられるはずである。
14代仲哀(ちゅうあい)天皇や21代雄略(ゆうりゃく)天皇、26代継体(けいたい)天皇、28代宣化(せんか)天皇らが、これに該当する。
崩年に見合うものを「畿内の古墳、遺跡」の欄から探し出して見ると、仲哀天皇=津堂城山(つどうしろやま)古墳、雄略天皇=岡ミサンザイ古墳、継体天皇=今城塚(いましろづか)古墳、宣化天皇=五条野丸山(ごじょうのまるやま)古墳の可能性が浮き上がってくるのだ。
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継体天皇の墓の可能性が高い今城塚古墳出土した復古甲冑(レプリカ) 大阪市高槻市提供
方墳は蘇我系、円墳は反蘇我系を示し、前方後円墳が八角墳となり簡素化
もう一つ注目すべきは、各古墳の形態だ。時系列に沿って古い順から並べてみると、土壙墓(どこうぼ)を皮切りとして、支石墓(しせきぼ)、甕棺墓(かめかんぼ)、木棺墓(いずれも中部〜東北)が続き、その後に、四隅突出形(よすみとっしゅつがた/島根)や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ/福岡)などを経て、古墳時代に入る。
もちろん、箸墓(はしはか)古墳に代表される前方後円墳の出現が古墳時代の始まりであることはいうまでもないが、それと競い合うかのように、前方後方墳が滋賀、京都、埼玉、山形、富山、岐阜、宮城など、東日本全域に広がっているのが興味深い。
ヤマト王権とは別の有力な勢力(狗奴国/くなこく と見る向きも)の存在が推測されるのだ。また、前方後円墳の地方への広がり方にも注目してほしい。ヤマト王権のおよその勢力範囲が把握できるからである。
「畿内の古墳、遺跡」では6世紀末頃から方墳(円墳は反蘇我氏勢力の墓との説も)が増えてくるが、これは蘇我氏の影響によるもの。続く八角墳の増加は、この頃から天皇陵が、この形態を採用したことによる。そして、大化の改新翌年に発布された薄葬令によって墳墓は簡素化され、古墳時代は終焉を迎えるのである。
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継体天皇の墓の可能性が高い今城塚古墳出土した胡簶(レプリカ) 大阪市高槻市提供