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各地の前方後円墳はヤマト王権の影響で出来たのか?

地方で中央と同様の古墳や出土品が見つかっている

中山茶臼山古墳
約120mの前方後円墳。四道将軍の1人・大吉備津彦命の墓とされ、宮内庁の管理下にある貴重な古墳。採集された埴輪片から3世紀後半〜4世紀の築造と推定されている。

 前方後円墳は大和朝廷を中心とする文化の波及とみてよいのか──。

 おおまかにいえば前方後円墳は大和朝廷を中心とする畿内の文化の各地への波及とみてよいと考える。

 

 その理由は、以下のとおりである。

 

(1)大和朝廷は、各地に、皇族将軍を遣わしている。

 

『日本書紀』によれば、第10代崇神天皇の時代に、「四道将軍(4つの地域への将軍)」を、各地につかわしたという。大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち/新潟県、富山県方面)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(東方)に、大吉備津彦(きびつひこ)を西の道(山陽道、岡山県方面)に、丹波(たにわ)の道主命(ちぬしのみこと)を、丹波(京都府、兵庫県方面)に遣わしたと記す。

 

 また、景行(けいこう)天皇の時代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)を、九州や東国に遣わした、とある。

 

 そして、これらの皇族将軍の派遣先に、関連するとみられる前方後円墳が存在する。

 

 たとえば、岡山県に中山茶臼山(なかやまちゃうすやま)古墳が存在する。この古墳は大吉備津の命の陵墓参考地であり、『陵墓要覧』はこれを大吉備津彦の命の墓とする。かつ、崇神(すじん)天皇陵古墳と中山茶臼山古墳は平面図がほぼ相似形であり、4世紀型の古墳である。

 

(2)古墳の形、埋葬品その他において、遠く離れていても畿内の古墳と共通性をもっている。

 

 たとえば、長野県の川柳将軍塚(せんりゅうしょうぐんづか)古墳は、四道将軍の1人の大彦の命の墓という伝承をもち、42面の鏡が出土したといわれる。

 

 4世紀型の古墳であること、大量の鏡が出土したことにおいて、畿内の古墳と共通性をもつ。また、福島県の会津大塚山古墳もまた四道将軍の1人・武渟川別(たけぬなかわわけ)と関係があるのではないかといわれるが、奈良県の桜井茶臼山古墳と同じく柄鏡(えかがみ)型の古墳で4世紀型の古墳である。ともに「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」が出土している。

 

 桜井茶臼山古墳は崇神天皇の皇后の御間城姫(みまきひめ)の墓とする説がある。武渟川別と御間城姫とは、ともに、大彦の命の子で、兄妹である。武淳川別は、阿倍の臣(おみ)の祖であった。現在の桜井市(奈良県)には阿倍氏の本拠地・阿倍の地(旧阿部村)や桜井茶臼山古墳、さらに崇神天皇の宮殿のあった金屋の地がある。安倍の地には、安倍氏の氏神・高屋安倍神社、氏寺・安倍寺などもある。

 

監修/水谷千秋 文/上永哲也

『歴史人』4月号「古代史の謎」より)

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