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卑弥呼の最期は自然死と殺害のどちらだったのか?


卑弥呼の最期については、これまで様々な説が提唱されてきた。『魏志倭人伝』などの史料で触れられた卑弥呼の様子を手掛かりとして、その最期を考察する。


 

卑弥呼が戦争で没したとする説を検証すると…

『吉野ヶ里遺跡』は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼(かんざき)市にまたがった場所にある「吉野ヶ里遺跡」は、邪馬台国の有力な候補として知られる。また弥生時代の大規模な『環壕集落(環濠集落)跡』として知られており、『国の特別史跡』に指定されている。

『魏志倭人伝』に、卑弥呼が亡くなる前の邪馬台国に大きな混乱が起こったことを思わせる記事がある。ゆえに、このあたりに関する疑問をもとに、さまざまな想像を巡らせた卑弥呼殺害説が出されてきた。

 

『魏志倭人伝』に、邪馬台国と邪馬台国の南方の狗奴国(くなこく)が争ったありさまが記されている。しかも、それから間もなく卑弥呼が死亡したともある。そのことから、かつて「卑弥呼が狗奴国との戦いで戦没した」ととなえる者もいた。

 

『魏志倭人伝』は、246年に王頎(おうき)という者が帯方郡の太守(たいしゅ/長官)になったときに、倭国が載斯(さいし)、鳥越(うえつ)らを帯方郡に送ってきたと記す。彼らは「(邪馬台国と狗奴国が)相(あ)い攻撃する状(かたち)」を説いた。

 

 卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)は、「素(もと)より和せず」ともある。また倭国の地理・習俗を記した部分には、邪馬台国の南に狗奴国があり、「女王に属さず」とも記されている。

 

 倭国の遣使を受けた太守の王頎は、部下の張政に邪馬台国を官軍とする詔書(皇帝の命令書)と、官軍を表わす黄幢(こうどう/黄色い旗)を持たせて倭国に送った。ところが、そのことを伝える記事のあとに、「卑弥呼以死(すでにしす)」と書かれている。

 

 この「以死」を深読みして、「卑弥呼はすでに戦死しており、詔書などは役に立たなかった」とする者が何人かいた。しかし「以死」は、すでに亡くなったことを示すもので、そこから卑弥呼が病死であったか、戦死であったかは分からない。

 

 これまで記したような卑弥呼戦死説の他に、「卑弥呼刑死説」とでも呼ぶべきものも出されている。それに従えば、卑弥呼は「悲劇の女王」と呼ぶべき女性であったことになる。

 

「卑弥呼刑死説」は、前にあげた『魏志倭人伝』の「以死」の文を、魏遣の張政の来訪に続けて解釈するものである。するとそこは、「張政の訪れを以(も)って、卑弥呼が死んだ」となる。

 

 作家の松本清張氏は『魏志倭人伝』をそう読み解いた上で、次のように主張した。

 

「狗奴国との戦いで、邪馬台国が不利になっていた。そこで魏は、卑弥呼より有能な王を立てることによりって邪馬台国を勝たせようとした。この意向に従って張政が、卑弥呼を死罪にするか、卑弥呼に自死を迫ったのである」

 

 この説の背景に、「邪馬台国の南方の狗奴国が魏と敵対していた長江流域の呉と結んでいた」とする想定がある。作家らしい想像力豊かな意見だが、漢文の正確な読みでは、「以死」を前の文章に続けて訓むことはできない。

 

 また狗奴国が鹿児島県のあたりにあったとしても、そこと中国の長江流域とを船で往来するのは容易ではない。

 

皆既日食現象が死に影響したとする説の可能性は?

 

 この他に、「卑弥呼は呪力が衰えたために、権威を失墜して人々に処刑された」とする説もある。ルーマニア出身の宗教学者・エリアーデが、「王殺し」という概念を唱えたためである。それは、「古代に宗教的権威によって国を治めた王の呪力が信頼されなくなると、王は民衆に殺される」とするものである。

 

 作家の井沢元彦氏は、「卑弥呼は「王殺し」によって処刑された」と唱えた。彼は、天岩戸伝説を日食による指導者の死を象徴する神話とみた。

 

 日食が起こった時に、太陽神に象徴される卑弥呼が天岩戸のような石室に葬られ、太陽神・天照大神が台与として再生したというのだ。

 

 そして人々が恐れる予想外の皆既日食が起こったことによって、「王殺し」が行なわれたと主張した。

 

 確かに太陽が昼間に少しずつ欠けていく光景は、不気味である。そして太陽が姿を消してあたりが真っ暗になってしまえば、多くの者が「地上は再び明るくならないのではないか」と心配する。

 

 東京天文台の斎藤国治(さいとうくにじ)氏が以前、「248年9月5日に、皆既日食が起こった」とする説を唱えていた。これをふまえて、井沢元彦氏は「9月5日の皆既日食のために卑弥呼が処刑され、そのあと新たに女王台与が立った」と述べた。これも作家らしい想像力に富んだ推測である。

 

 しかし、最近になって東京天文台が軌道の計算をやり直したところ、248年には皆既日食は起こらなかったことが明らかになった。

 

 張政が訪れたときに、卑弥呼はすでに80歳の老年に達していた。ふつうに考えれば、彼女の死を病死とみるのが自然であろう。

 

監修・文/武光誠

『歴史人』4月号「古代史の謎」より)

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