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聖徳太子と蘇我馬子は仲が悪かったのか⁉ ─太子の斑鳩移住の真相─

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聖徳太子は一説によれば、同時代に活躍した豪族のひとりとして知られる蘇我馬子(そがのうまこ)と対立関係にあったといわれている。推古9年の斑鳩宮の造営は、その対立が原因で、関係悪化の結果として斑鳩の地に移ったともいわれるが、実際にはどんな関係にあったのだろうか?

 

斑鳩(いかるが)は内陸の飛鳥より外交に適した場所だった

法隆寺夢殿奈良時代に建立された八角円堂。堂内には、聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されている。国宝。

 推古9年(601)2月、聖徳太子は斑鳩(いかるが)宮の造営を開始した。4年後には飛鳥からそこに移り住んだとされる。

 

 聖徳太子の移住の理由は、蘇我馬子との対立にあったといわれる。推古の即位と同時に皇太子として政治に参画するようになった彼が、大臣の蘇我馬子と対立を深め、ついにその闘争に敗れた結果、飛鳥から離れた斑鳩の地に隠遁(いんとん)したのではないかといわれてきたのである。

 

 しかし、このような見方は疑問である。なぜならば、先にみたように、太子が推古の即位にともなって直ちに皇太子に立てられ、政治の枢要(すうよう)に関与するようになったとは考えがたいからである。当時20歳前後とみられる彼が政治に参画するようになったのはこれ以後のこととみなければならない。

 

 聖徳太子が政権に加わるようになったのは、むしろ斑鳩宮の造営前後と考えるべきであろう。

 

 聖徳太子のような有力な皇子は、一定の年齢になると独立した宮殿を営むことがみとめられ、その王宮の経営・維持の費用を供する経済基盤があたえられた。太子が斑鳩宮の造営を始めた時にはすでに30歳近くになっていたから、これ以前に独立した王宮を営んでいたに違いない(所在地は不詳)。

 

 太子が新たに斑鳩の地に宮殿の造営を始めたということは、彼の地位・身分が上昇し、新たな使命をあたえられ、それに即応した王宮の造営が必要になったことを物語る。

 

 斑鳩は飛鳥の北方約20キロに所在する。そこは内陸の飛鳥よりも陸路・水路を通じて中国や朝鮮半島に直結する難波津(なにわづ)へのアクセスに便利であった。太子が飛鳥ではなく斑鳩の地に新たな拠点をもうけたということは、彼にあたえられた役割がいわゆる外交であったことを示すといえよう。

 

 斑鳩は権力闘争に敗れた太子の隠棲(いんせい)の地などではありえず、太子の活躍はこれ以後に始まるのである。

 

 以上のように考えるならば、太子と馬子が対立関係にあったという痕跡はみあたらない。

 

 また、太子は蘇我氏の血を色濃く受け継いだ皇子でもあった。

 

 聖徳太子の両親はともに欽明天皇の皇子女であったが、母親が違った。聖徳太子の父・用明天皇の母は堅塩媛(きたしひめ)。太子の母・穴穂部間人皇女の母は小姉君(おあねのきみ)であった。堅塩媛も小姉君も蘇我稲目のむすめであったから、聖徳太子のからだには父方からも母方からも蘇我氏の血が濃厚に受け継がれていたのである。

 

 このことからも、聖徳太子は、むしろ蘇我氏と利害を共有するところが多かったとみなすべきであろう。

 

監修・文/遠山美都男

 

『歴史人』電子版『大人の歴史学び直し』シリーズ「聖徳太子」より)

 

 

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