古墳から探ることで、謎の豪族「秦氏」に迫れるか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #038
渡来氏族である秦氏(はたし)の由来には、現代でも諸説がある。秦の始皇帝の末裔や、イスラエルからからの渡来人とも言われる彼らは、いったい何者なのだろうか? 一族で有名な秦河勝(はたのかわかつ)は、聖徳太子と懇意だったことでも知られており、その身分の高貴さも謎を残している。今回は、彼らの古墳からその正体を考察してみる。
「辰韓」が「新羅」へ、「辰・新・秦」の「シン」という発音の類似
鉢塚古墳から-300x169.jpg)
秦氏の痕跡、五社神社奥の院・鉢塚古墳/柏木宏之撮影
「弓月(ゆづき)の君」として歴史に登場するのが「秦氏」です。渡来氏族で、養蚕(ようさん)、機織り、そのほかの最新技術や膨大な財力を以って大和建国の陰に見え隠れする謎の氏族でもあります。
「秦の始皇帝の末裔説」や遠くイスラエルからやって来たという「日・ユ同祖論説」、「徐福伝説由来説」などなど、さまざま愉快な話題の素をふりまいてくれる氏族でもあります。
彼らの祖先がどこを故地として、どこから日本列島に渡来してきたのかは私にはわかりません。しかし自由な歴史遊びの素材として、これほど雄大な妄想をさせてくれる氏族も少ないのは確かです。
秦氏は九州から東北まで、いたるところに存在した痕跡を残しています。
なぜ彼らが「秦(はた)」を名乗ったのかについては諸説あります。古語で海のことを「パタ」と発音していたので、海を渡って来た彼らが「パタ」を名乗り、それがやがて「ハタ」となったという説があります。
たしかに古い言い方で海のことを「わたつみ」といいます。それは「パタ→ハタ→ワタ」と音韻変化したのだという説があるからでしょうか。
これらの説をいちいち検証して否定、または肯定する能力は私にはありませんので、ただ面白がっているだけなのですが、ただ私が一つ引っかかっているのは、倭の五王のうち5人目の「武」に与えられた称号の「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」で、その13文字目の「秦」なのです。
大昔の朝鮮半島には「馬韓・弁韓・辰韓」の三国があって、その「辰韓」地域が「新羅」になるといいます。
「辰・新・秦」はどれも「シン」と発音しますから当て字なのでしょうが、どうも引っかかるのです。
秦氏が新羅からやって来たという説もありますね。しかも列島各地の秦氏は相当多くの人口だったようですから、一度に来たわけではなく長い年月をかけて、何度にもわけて渡来し存続発展したのでしょう。
呉服神社額-300x225.jpg)
渡来した機織り姫を祀る呉服神社/柏木宏之撮影
大阪府の池田市内にある機織り姫の神話と秦氏の古墳
大阪府の北部にある池田市には渡来した機織り姫を祀る神社があります。呉服(くれは)神社と伊居太(いけだ)神社です。そこには織姫伝説がありまして…。
応神天皇の時代に呉の国から呉服(くれはとり)と綾羽(あやはとり)という姉妹が今の大阪府池田市に渡来して機(はた)織りを続け、二人が亡くなった時に仁徳天皇がこの地に神社を建てて祀った…。という伝説です。
確かに今でも着物のことを和服といいますが、それは呉服屋さんで買い求めますね!
そして、秦氏は機織りの技術を以って大和王権に貢献しています。
五社神社・鉢塚古墳碑-300x169.jpg)
大阪府池田市の五社神社/柏木宏之撮影
大阪府の池田市内には重要な秦氏の痕跡があります。
五社神社といって、祭神は国常立尊クニトコタチノミコト、建速素盞鳴尊タケハヤスサノヲノミコト、五十猛尊イソタケルノミコト、住吉大神スミヨシノオオカミ、穴織大神アヤハノオオカミの五柱です。そして本殿の後ろに接している「鉢塚古墳」という大石室が奥の院とされています。
鉢塚古墳羨道(左5度ほど回転水平処理希望)-228x300.jpg)
五社神社奥の院鉢塚古墳羨道から石室内部/柏木宏之撮影
この古墳は調査研究の結果、二段円墳で周濠を含めて直径62mと推定されています。玄室の奥行は6.48m、幅3.2m、高さが5.2mという巨大な空間です。
有名な明日香村の石舞台古墳の玄室の高さが約4.7mですから、高さでは石舞台古墳よりも高いのです。6世紀末から7世紀初めの築造で、当時の池田市地域は秦氏の領地だったと考えるべきですので、これは秦氏の古墳だということになります。
蘇我氏に劣らない古墳を築いていた秦氏とはいったい何者なのでしょうか!?
(続く)