上宮王家滅亡の理由を探る② ~ 蘇我氏期待の星 聖徳太子一族はなぜ滅びたのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #033
首都の明日香を離れて斑鳩(いかるが)に遷った聖徳太子。なぜ斑鳩を選んだのか? その必然性が角度を変えて眺めてみるとわかってくる。また、それがのちに上宮王家(じょうぐうおうけ)滅亡の原因ともなったのではなかったか。身内であったはずの蘇我氏に滅ぼされた理由を探ってみよう。
重要な交通・輸送路だった大和川
DSCN2506-300x225.jpg)
法隆寺・西院伽藍 撮影柏木宏之
斑鳩は生駒山のすぐ東で、山を越えれば河内です。当時そこには河内湾があり、大和川が注いでいます。
実はわが国の物流は長らく水運に頼っていました。人も物も蒸気機関車が走るまで、川船で輸送されたのです。太子の時代はもちろんそうで、遠く大陸に出かけるときも川船で河内湾に出て、そこから瀬戸内を進んで外洋に出たのです。つまり、奈良盆地から河内湾に抜ける河川は大和川しかありませんので、最重要な輸送路だったのです。
今もそうですが、大和川にはさまざまな奈良の河川が流れ込みます。飛鳥川もその一つです。大和川に斑鳩付近で流れ込む飛鳥川の合流場所は、首都高速道路の重要ジャンクションのようなものです。
飛鳥から水路を辿って大和川に合流して、そこから河内湾に出なくては大量の荷物や大勢の人を運びにくいのです。陸路は竜田道がつけられましたが、重い荷物を持って山越えをするのは大変です。また海外からの賓客を歩かせるわけにもいきません。水路は重要な交通路だったことがわかります。
この水路を安全に確保することは、首都の安全と人流・物流を守ることになります。太子はその重要拠点を確保すべく、斑鳩に遷ったのです。明日香と斑鳩を結ぶ斜行道路の太子道も整備されていますね。いかに斑鳩地域が重要な地勢にあったかということがわかりますね。
さて、それほど重要な拠点を信頼できる太子が守ってくれるなら蘇我馬子も安心です。
斑鳩に寺が多いことにも理由が二つあると思います。一つは、最新の仏教に付随する建築技術や仏教美術、文字や哲学を学ぶ拠点キャンパスとしての寺。もう一つ、版築された頑丈な塀に守られた広大な砦としての役割も寺は担います。平和のシンボルのような寺は、後の時代も軍事拠点として利用されますね。つまり見方を変えれば、斑鳩地域は巨大な軍事拠点だったともいえなくはありませんね。
版築-300x225.jpg)
法隆寺 版築塀 撮影柏木宏之
さて太子が622年に亡くなっても、斑鳩は相変わらず上宮王家が守っています。太子の跡継ぎの山背大兄皇子が家督を継いでいます。そして推古天皇の寿命がついに尽きる時が来ます。大臣蘇我馬子もすでに亡くなって、大臣の位は蘇我蝦夷(そがのえみし)、入鹿(いるか)親子に世襲されます。
ここで騒ぎが起こるのです。