大阪府南河内郡太子町の双方墳は蝦夷と入鹿の双墓なのか⁉
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #031
飛鳥時代最大の政変、乙巳(いっし)の変で絶対権力の座から一瞬にして滅亡した大臣世襲の蘇我蝦夷と入鹿の親子。二人の墓は双子のように並んで造営されたといわれており、「双墓(ならびのはか)」と呼ばれていた。しかし、それがどこにあるのかはいまだに確定されていない! ここでは大胆に断言してみよう!
「かまぼこ」のような石蓋の家型石棺が同時造営
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二子塚古墳/撮影と説明文字挿入・柏木宏之
さあ、歴史遊びを楽しみましょう。
蘇我氏の墓域ともいえる大阪府南河内郡磯長(しなが)地区に、蘇我本宗家とかかわりの深い人たちの古墳が築かれるのは当然です。しかし被葬者伝承の無い、謎の古墳もあります。その代表的なものが二子塚古墳ではないでしょうか? 例の無い双方墳で、石室も埋葬されている二つの石棺もまったく同じ形で、二棺とも全く同時に造られた例の無い「かまぼこ」のような石蓋の家型石棺なのです。
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東側方墳石室のかまぼこ蓋石棺/撮影柏木宏之
方墳が二つ並んで、というより二つで一つという形で同時に造営されているのがこの古墳なのです。
一つの古墳に大きな石室を造って合葬されてもよいのに、それぞれ墳丘を造って、しかも二つで一つなのです。現代風にわかりやすくいうと、ツインルームで良いのに、わざわざシングルルームを二つコネクティングしたような感じです。
さあ、推理ゲームの始まりです。
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太子町二子塚古墳構造イメージ/作図/柏木宏之
つまり、独立して葬られても良いはずの同等高位の二人が被葬者です。二人は、同じ形と同じ寸法の石室と石棺に葬られています。
ということは、二人はほぼ同時期にこの世を去って同時に埋葬された同等高位の人物…。
しかもそこは蘇我本宗家の墓域で、形式は双子のように並んだ例のない方墳。
となると被葬者は、蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)の親子だとしか思えません。
乙巳の変で大臣蘇我本宗家が瞬時に滅びなければ、明日香の一等地に巨大な方墳が造営されて、蝦夷も入鹿も葬られたことでしょう。それほどの大権力を謳歌していたはずです。
その痕跡が甘樫丘(あまかしのおか)の南裾で発見された小山田(こやまだ)遺跡ではなかったでしょうか?
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二子塚古墳東側石室/撮影柏木宏之
「御門(みかど)」と呼ばせ、蝦夷と入鹿が大邸宅を築いた甘樫丘の南側
もちろん生存中から造られる寿墓(じゅぼ)ですから、乙巳の変の645年頃には大方墳の一段目ぐらいは完成していたと考えてよいでしょう。
つまり小山田遺跡の巨大方墳の痕跡は、未完成で放棄された大臣蘇我蝦夷の巨大方墳だと私は考えます。その物的証拠は未発見ですし、今後も発見される可能性は極めて低いでしょう。
しかし時代が7世紀半ばの遺跡で、蝦夷と入鹿が「御門(みかど)」と呼ばせた要塞のような大邸宅を築いた甘樫丘の南側直下です。
方墳は蘇我氏の墳墓型です。蘇我稲目、馬子とも特徴的な大方墳でしたね。
そして太子町の磯長に集中する蘇我一族ともいえる天皇陵も方墳でしたね。
以上の状況証拠と時代考証から、私は二子塚古墳こそ蘇我蝦夷と入鹿の「双墓(ならびのはか)」だと結論します。皆さんはどう推理しますか?