聖徳太子の外交戦略 〜 隋に門前払いされた屈辱を短期間で見事に挽回
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #027
対等の立場を明確にした国書を届けた小野妹子
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明日香村飛鳥寺本尊飛鳥大仏/柏木宏之撮影
『隋書』にしか残されていない記録によると西暦600年に倭国は第1回遣隋使を送っていますが、大失敗に終わったようです。
推古朝の政治を任された厩戸皇子(うまやとのみこ=聖徳太子)と大臣(おおおみ)蘇我馬子は、焦眉(しょうび)の急だった大国隋との国交樹立を成功させるべく国内の改革を急ぎ進めます。
まず隋に指摘された近代的な官僚制度を603年に形作ります。これが冠位十二階です。
そして翌年の604年に十七条憲法を発布します。これも、隋に明文法の無いような蛮国だと指摘されたことへの対応でしょう。
さらに完成した飛鳥の法興寺に鋳造した丈六仏(じょうろくぶつ)、すなわち飛鳥大仏を据え付けます。飛鳥大仏の完成時期には諸説ありますが、私は中金堂に設置できる事を見込んで607年に小野妹子を正使とした遣隋使を出発させたのだと考えています。
「日出処の天子、日没する処の天子に書をいたす。恙なきや云々」
という大国隋の煬帝(ようだい)と対等の立場を明確にした国書を小野妹子に持たせたのはこの時でした。
当然隋の煬帝は激怒します。それは「天子はこの世に我一人である!蛮国の首長が天子を称するとは何事か!」という怒りです。
激怒したものの高句麗攻めを企図していた隋は、倭国と国交を結ぶ決断をします。
裴世清を四天王寺と小懇田宮で迎える
煬帝は裴世清(はいせいせい)という外国使節の接待長官を答礼使として送り、当時の東アジアの序列と秩序を倭国に教えようとしました。
「世界の礼儀を知らない野蛮な倭国に行くのだ」という認識で渡海してきた裴世清一行が当時の国際港である難波津に西側から近づくと、東の陸地の高台にキラキラと甍が輝く大きな寺が見えてきます。四天王寺です。南北に長い伽藍(がらん)配置の四天王寺は海上からは実際以上に大きく立派に見えたでしょう。
何日も続く大仰な歓迎会のあと、川を遡って海石榴市(つばいち)に案内された裴世清一行は、美しく飾られた何十頭もの飾り馬の行列に迎えられて、首都の飛鳥へ向かいます。
高台から飛鳥の都を見下ろした一行の目に飛び込んできたのは、一塔三金堂の広大な寺域を誇る法興寺でした。寺に案内された一行は、飛鳥大仏の大きさと精緻(せいち)さに驚きます。
「これは想像していたような蛮国ではなかった!」と裴世清は思ったでしょう。
そして、新築間もない小懇田宮(おはりだのみや)に通されたのです。
こう再現してみると、一度は門前払いをされた屈辱を短期間で見事に挽回したと思われてなりません。すべては厩戸皇子の思う壺に進んだと思えます。
厩戸皇子とは、とんでもない大戦略家であり国際政治に長けた人だったといえるでしょう。