大王墓と地震による地形変化~今城塚古墳こそが継体天皇陵である理由
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #022
天皇陵を守らなくなり墓泥棒が横行した鎌倉時代
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継体天皇陵と表示がある太田茶臼山古墳
宮内庁に陵墓として登録されていない今城塚(いましろづか)古墳は、淀川の右岸、大阪府高槻(たかつき)市にある北摂(ほくせつ)で最大規模の前方後円墳です。二重の周濠(しゅうごう)と日本で最大の埴輪(はにわ)祭祀場が発見されている大古墳です。
しかし天皇陵とはみなされていません。なぜでしょうか?
その理由は江戸時代に遡ります。
『古事記・日本書記・延喜式』には「三島の藍の陵・嶋上の陵」などと記されている継体(けいたい)天皇陵は、現在は茨木市にある太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳だとして祀られています。
たしかに両古墳は東西に1.5キロしか離れていない大前方後円墳なのですが、太田茶臼山古墳は今城塚古墳よりも50年程度古い古墳だということがわかっていて、継体天皇の時代よりも古いのです。周濠もありますが一重です。
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三島藍陵(太田茶臼山古墳)と今城塚古墳(東側の丸囲)(Google mapを元にマーカー指定)
平安時代までは墓守が天皇陵を守っていましたが、武士の時代になると墓守がいなくなり、墓泥棒が横行します。盗掘(とうくつ)がはじまるのは鎌倉時代なのです。
そして、どれがどの天皇陵なのかがだんだんわからなくなっていきます。
継体陵の盗掘者が逮捕された記事があるそうで、そこには「摂津の御陵嶋上陵(せっつのみささぎ しまかみりょう)」と書かれています。
当時、この三島地域は島上と島下に別けられていて、現在も高槻市と茨城市の境界がほぼそのラインです。すると島上地域にあるのが今城塚古墳で、島下地域にあるのが太田茶臼山古墳ということになります。
今城塚古墳が破壊され、墳丘も低くなった1596年の伏見大地震
しかし1596年に伏見大地震が発生します。秀吉の伏見城が倒壊したあの大地震です。
有馬高槻構造線が動いて、ちょうど今城塚古墳の真下を通る安威(あい)断層も大きく活動しました。
その結果、今城塚古墳は大きく破壊され、墳丘も非常に低くなり、崩れた墳丘(ふんきゅう)封土で内濠が埋め尽くされてしまうのです。そしてすべて田んぼに利用されました。墳丘は平べったくなり威厳を失います。
私が40年ほど前に初めて今城塚古墳を訪れた時は、まさに田んぼの真ん中にこんもり低い森があるような状況でした。つまり大地震以降、大古墳はすっかり姿を変えてしまったのです。
戦国時代も終わり、ようやく平和な江戸時代になると、歴史研究が始まります。
国学者の本居宣長も継体天皇陵は地震の被害が無かった太田茶臼山古墳だと認定しています。そして「島上にある陵というのは延喜式の間違いで、実際は島下にあるというのが正しい」と断定しました。
その意見を明治政府も継承したために現在も継体天皇陵は太田茶臼山古墳だということになっているのです。
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太田茶臼山古墳測量図(現地展示パネルより撮影)
(次回に続く)