進化する前方後円墳~伏見大地震で分かった!今城塚古墳の内部構造
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #021
3世紀後半の前方後円墳は箸墓から学びはじめよう

今城塚古墳埴輪(はにわ)祭祀場
古墳時代を代表する王墓といえば前方後円墳です。この形の古墳が約400年間造り続けられます。この形に込められた思想は以前に私見をお話ししましたが、今回は同じ種類の形でも、徐々に進化をしているという話をいたします。はっきりしませんが3世紀の後半に前方後円型の古墳が出現します。本格的なものはやはり奈良県の箸墓(はしはか)が最初でしょう。
箸墓の特徴は、前方部が撥(ばち)のように広がることでしょう。この形が古い形だとされています。そして後円部の埋葬形式は、頂上を掘りこんで棺を納める土壙墓形式、すなわち竪穴式です。前方部は真っすぐの長方形型や扇のように広がる形など様々です。
箸墓バチ型-183x300.jpg)
「箸墓古墳(前方部が撥型)」今城塚古代歴史館展示資料を撮影
問題は後円部の埋葬形式で、初期型の竪穴式から徐々に横穴式石室になっていきます。横穴式も版築(はんちく)で固く積み重ねた後円部の最上部に石室を造る形式から始まるようです。
ただし、いくら固く盛り土を突き固めても、石室やその中に収める石棺は相当な重量になります。残念なことに天皇陵や陵墓参考地は調査ができませんので、その重たい石室の基礎部分がどうなっているのかはわかりませんでした。
しかし、高槻市にある今城塚古墳がその基礎部分を初めて教えてくれたのです。
排水設備もあった今城塚古墳の内部構造
今城塚(いましろづか)古墳は6世紀初めの巨大な前方後円墳です。二重の濠を持つとても美しい古墳なのですが、ここは陵墓(りょうぼ)と認定されていません。1997年から本格的な大規模調査が始まります。
継体天皇陵復元図-3-266x300.png)
「今城塚古墳完成時の継体天皇陵復元図」今城塚古代歴史館展示資料を撮影
縦横全体は約350m×340mの大古墳で、継体(けいたい)大王の墓であることが確実視されているのですが、江戸時代に継体天皇陵は1.5Kmほど西にある太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)であるとされたのです。ですから太田茶臼山古墳は調査ができませんが、今城塚古墳はその全容が調査されました。今城塚古墳は1596年に発生した伏見大地震の時、活断層の真上にあったので大きく損傷して、墳丘は大崩れを起こしています。
調査の結果、三段に築造された後円部の最上段に大きな石室があったようですが、地震で崩れて石棺ともども粉々に粉砕されていました。しかし、その巨大な重量を支える基礎部分がはっきり検出されたのです。
この時代の前方後円墳は、地山の上に盛り土をして、その最上段に石室を設置していたこともわかります。ただ、版築だけでは重量に耐えられず不当沈下を起こすので、二段目に大きな川原石を大量に敷き詰めて基礎としていました。また浸透した雨水が石室の下の土を緩めたり流したりしないように、排水設備もしっかり設置されていました。
その後の時代は、石室を地山の上に直接設置するように進化し、後円部の底の方に石室が収まります。その方が合理的ではありますね。
櫻井茶臼山長方形.jpg)
「前方部が長方形型となっている櫻井茶臼山古墳」今城塚古代歴史館展示資料を撮影
(次回に続く)