天皇陵に比定されなかった古墳が実は天皇陵だった!? ~『日本書紀』などの文書の記述と考古学調査の結果が一致
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #016
死後の世界観や哲学に大変化があった34代舒明(じょめい)天皇陵
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斉明期のものと推定される酒舟石(さかふねいし)遺跡 柏木宏之撮影
天皇陵をはじめとして現在の皇室にかかわるご先祖様の陵墓は宮内庁の管理下に置かれ、静謐(せいひつ)を犯すべからずという考え方から発掘や調査はおろか立ち入りが禁止されています。
しかし、天皇陵とされなかったために発掘できた重要な古墳がいくつかあります。
ひとつはこの稿にたびたび登場する今城塚(いましろずか)古墳。他には牽牛子塚(けんごしづか)古墳や中尾山古墳などがあります。
高槻市にある今城塚古墳はまず間違いなく27代継体(けいたい)天皇陵でしょう。また、明日香村の南西部にある牽牛子塚古墳は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇陵でしょう。さらに先ごろ調査された明日香村の中尾山古墳は文武天皇陵だと考えられます。
この中で前方後円墳は今城塚古墳だけで、あとの二つは八角墳です。
以前にも申しましたが、大王墓である巨大な前方後円墳は34代舒明天皇陵から八角墳に変わります。
ここで死後の世界観や哲学に大変化があったことになります。
舒明天皇陵を造営した時代はまさに飛鳥時代中頃で、蘇我入鹿(そがのいるか)やのちの天智天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の時代です。舒明天皇の皇后は蘇我氏と藤原氏に翻弄された皇極(こうぎょく)天皇で初めて皇位を禅譲、さらに重祚(ちょうそ)して斉明(さいめい)天皇となる、中大兄皇子や大海人皇子(おおあまのおうじ・天武天皇)の実母です。
この女帝の陵墓だと私が確信する牽牛子塚古墳の「牽牛子(けんごし)」とは、朝顔の別名です。化粧石で飾られた小高い丘の上にある八角墳は実に美しく飛鳥人の目にとまったでしょう。『日本書紀』にこんな記述があります。
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牽牛子塚古墳碑 柏木宏之撮影
『西暦668年2月(旧暦) 中大兄皇子は母親の斉明天皇と妹の間人皇女(はしひとのひめみこ=孝徳天皇皇后)を小市岡上陵(をちのをかのうえのみささぎ)に合わせ葬った。同じ日に中大兄皇子の娘の大田皇女(おおたのひめみこ=大海人皇子の后で大津皇子の母親)をこの陵の前の墓に葬った。』
2009年から10年にかけての調査で、牽牛子塚古墳は八角墳であることが実証され、さらにくっついたような越塚御門(こしつかごもん)古墳を発見しました。
この考古調査の結果が『日本書紀』の記述とあまりにも符合することから、学会は断定しきれていませんが、私は皇極・斉明天皇陵だと断定しています。
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牽牛子塚古墳内部 柏木宏之撮影
『日本書紀』などの記述と考古学調査の結果が一致すると興奮しますね!
こうなると宮内庁や皇室の許しを得て天皇陵をことごとく調査することができれば、ますます『記紀』の記述との一致が証明されるのではないかと思います。もしかして神武天皇以降の欠史八代(けっしはちだい)といわれ架空の天皇ではないかと疑われている大王の実在が証明されるかもしれませんね。
ただし天皇陵の比定も大きく変わると思われます。・・・それがまずいのでしょうねえ。
(次回に続く)