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『前方後円墳は本当に前方で後円の形状なのだろうか?』~墳墓の主体は後円部。では前方は何の役割なのか?!

[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #011

古墳を横から見て「車」が連想され「前方後円墳」と名づけられた

写真1)奈良県天理市・黒塚古墳(4世紀前半の前方後円墳)で三角縁神獣鏡が33面出土した竪穴式石室の原寸大レプリカ

 江戸時代に古墳を測量調査して『山陵誌』を残した蒲生君平が「前方後円墳」と名付けたことは以前にも申しました。現代の私たちにも耳馴染んで何の疑いもなく歴史上重要な古墳形式名として使っています。

 

 なぜ蒲生君平がこのように名付けたかというと、古墳を横から見て、貴人が乗った「車」を想像したからだといわれています。つまり、調査研究にのっとって名付けたわけではなく、形の連想から名付けたわけです。

図1)前方後円墳語源図(左)車を引く前部分(右) 貴人の乗る部分

 その後、後円部は主人公の埋葬施設、つまり墳墓の主体で、前方部は祭祀を執り行った場所である、と認識されるようになりました。

 

 初期の前方後円墳である大市墓(おおいちのはか。箸墓)の周辺には、前方後円墳以前の「ホタテ貝式古墳」があります。円墳のすそにテラスのような土壇が蝶番(ちょうつがい)のようにへばりついているので、ちょうどホタテ貝のように見えたからこの名前が付きました。

 

 しかし今では「この土壇が徐々に伸ばされて前方部になったに違いない」という意見が強くなり、「纏向型前方後円墳」(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)と呼ばれるようになっています。

 

 たしかに葬送祭祀を行った土壇が前方部と呼ばれるほどに大きく長く変化したのなら、これは理にかなった考え方です。

図2)ホタテ貝式古墳

 ところが、2013年に地味に大変な発見がありました。

 

 百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)の一つ、土師ニサンザイ古墳という、百舌鳥古墳群の中では築造年代が比較的新しい巨大前方後円墳の濠の調査をしたときに、濠の底から多くの柱穴が発見されたのです。

 

 それは後円部の内濠での発見でした。濠を渡る橋のような柱穴列、後円部の頭頂部では左右に広がるように柱穴が発見されたのです。つまり、後円部の頭頂部にT字型の木製施設跡が発見されたのです。

図3)堺市土師ニサンザイ古墳 木橋テラス跡

 何のための施設なのでしょう?  それは葬送祭祀をしたステージではなかったでしょうか?

 

 もしもそうだとすると、前方部の役割がなくなってしまいます!

 

 埋葬された主人公の祭祀は、円墳部の直下で行われた可能性を示唆しているといえるでしょう。

 

 つまりホタテ貝式の蝶番のような土壇は祭祀をする場所でしょうが、前方後円墳型式が普及したころのニサンザイ古墳で、木製の祭壇が円墳部の際に造られて用が済んだら撤去されていた遺構が発見されたのです。まだ検出数が唯一なので何とも言えませんが、本当に前方部が祭祀の場だったのかどうかに疑問を持つべき発見だったと思います。

 

 諸説ありまして祭壇だったかどうかも確定はしませんが、大きな疑問を呈した発見だと思います。

 

 皆さんはどうお考えになりますか?

 

(次回に続く)

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柏木 宏之(かしわぎ ひろゆき)
柏木 宏之かしわぎ ひろゆき

1958年生まれ。関西外国語大学スペイン語学科卒業。1983年から2023年まで放送アナウンサー、ニュース、演芸、バラエティ、情報、ワイドショー、ラジオパーソナリティ、歴史番組を数多く担当。現在はフリーアナウンサーと同時に武庫川学院文学部非常勤講師を務め、社会人歴史研究会「まほろば総研」を主宰。2010年、奈良大学通信教育部文化財歴史学科卒業学芸員資格取得。専門分野は古代史。歴史物語を執筆中。

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