卑弥呼の墓は箸墓か?~吉備地方や東海地方も影響を受けて造営された古墳の形跡
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #009
大物主大神の妻の墓として標石が立つ箸墓
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写真①)陵墓大市と書かれた宮内庁公示版箸墓古墳
結論から申し上げます。
箸墓(はしはか)古墳が『魏志倭人伝』に記載されている「径百余歩の卑弥呼の墓」だという証拠は一切ありません。宮内庁管理の「陵墓大市(おおいち)墓(箸墓)」という古墳(写真①参照)があり、被葬者は「倭迹迹日百襲姫命」と書いて「ヤマトトトヒモモソヒメノミコト」という女性だとされています(写真②参照)。
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写真②)ヤマトトトヒモモソヒメと書かれた箸墓標石
どんな女性かといえば、三輪山に鎮座する「大物主大神(おおものぬしのおおかみ)」の奥様といえばよいでしょうか。毎夜通ってくる彼の正体が小さな白蛇だったことに驚いて、大けがをして亡くなってしまう皇女です。
彼女の死を悼んで、昼は人、夜は神が造りあげたのが大市墓、つまり箸墓だという伝承があります。何とも不思議な話ですが、まあ伝承とはそんなものですね。
しかし実際に巨大前方後円墳が厳然と存在するわけでして、これは誰にも否定できません。
ただ綿密な調査が許されていませんので、正確な造営時期や被葬者の手掛かりになりそうな証拠がほとんど無いといえるのです。
前方後円墳の墳形も時代と共に進化します。箸墓古墳がかなり古い時代の初期デザインであることに異論はありません。その築造時期は3世紀中頃から4世紀初めではないかと推定されています。もしも3世紀中頃でしたら、まさに卑弥呼の時代にピタリと合いますので色めき立つわけです。
しかし考古学の基本は「予断をせずに出てきた実物を無心に調査研究すること」です。
私は個人的には予断に過ぎる「卑弥呼の墓との説もある箸墓…」という表現を忌避しています。
それともう一つ。宮内庁が登録している通り、大市墓(箸墓)がヤマトトトヒモモソヒメのお墓なら、「前方後円墳は元々大王墓ではなかった!」ということにならないかという疑問があります。
偉大な神の妻の墓ではありますが、天皇陵とはいえません。女帝は飛鳥時代を開いた第33代推古天皇が最初です。
初期型の巨大前方後円墳である箸墓が調査の許されない不自由な研究ではあっても、吉備地方の影響を受けて造営されている可能性や、大和王権発祥の地といえる纏向(まきむく)遺跡近隣にあることなど、解決しなければならない問題が山のように多く残されています。
そもそも纏向遺跡の全体像や、都が作られた経緯、東海地方の勢力が大きくかかわっていることや、各地の外来土器がやたらに多く出てくることなど、謎だらけなのです。
卑弥呼がどこにいたのかは置いといて、纏向遺跡の研究がさらに真摯に進むことを祈ってやみません!
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写真③)箸墓全景
(次回に続く)