被葬者がめずらしく判明している古代天皇陵 ~明日香村にある「野口の王墓」が天武持統合葬陵とわかった理由
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #015
「野口の王墓盗掘事件」検非違使による文暦2年の調書
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天武・持統合葬陵(奈良県高市郡明日香村)。森の部分が合葬陵となっている。写真 柏木宏之撮影
古墳で被葬者が学術的に確定している天皇陵はほとんどありません。「〇〇天皇陵」と表示されていても、調査をして確定したわけではありません。『日本書紀』や『古事記』などを参考に指定されているだけの事です。しかしながら、間違いなく被葬者が判明した古墳もあります。
奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村にある「野口の王墓」とか「檜前大内陵(ひのくまのおおうちりょう)」と呼ばれた古墳です。ここは時代によって推定被葬者が変わりましたが、明治時代に大変な発見があって、被葬者が確定したのです。
明治13年の事、京都の高山寺(こうざんじ)から『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』という古文書の写本が発見されて解読されます。これは文暦2年(1235)の「野口の王墓盗掘事件」で当時の警視庁である検非違使(けびいし)が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書であり、現場検証の記録です。
それまでかなり混乱していて野口王墓は文武(もんむ)天皇陵だとされていましたが、この発見によって間違いなく天武・持統(てんむ・じとう)合葬陵だということが判明したのです。
墓泥棒が捕まった記録が明治になって発見されて天皇陵が確定した、つまり、鎌倉時代の墓泥棒が古墳の内部を調査したようなことになったから、わかったのです。
天武天皇は686年に崩御し、持統天皇は702年に崩御しています。
天武天皇はそれまで通り、殯(もがり)をされて2年後に埋葬されます。しかし持統天皇は皇族で初めての火葬にされ、銀の骨壺に骨灰を収納して埋葬されます。
鎌倉時代に逮捕された墓泥棒の供述を簡単に記しておきます。
「墓に入ったら奥の方に一体の骸骨があった。手前には台の上に立派な金銅製の箱があり、その中に銀の大きな壺があった。これは金になると思い盗みだしたが、中には灰が詰まっていて邪魔なので、灰を溝に捨てた・・・。」
なんということでしょう!
しかし驚くべきことに『日本書紀』などの詳細な埋葬記述と一致する石室内の状況でした。
この写本が明治13年に発見され、すぐに当時の太政官であった三条実美(さねとみ)卿に具申され、翌年早々に野口の王墓こそが天武・持統合葬陵だと確定したのです。
天武天皇とは大海人皇子(おおあまのみこ)のことで、天智天皇の弟。古代最大の内乱「壬申の乱」をわずか40日余りで制して近江から飛鳥に都を戻した大天皇です。持統天皇とは歴女にファンの多い女帝で、天武天皇の皇后でもあります。
このご夫妻は同じ陵墓に合葬されているのです。
現在は八角墳であることもわかっています。
歴史上例を見ないほどのクリーンヒットでした。いや大ホームランでしょうか!
現在、明日香村では中尾山古墳の調査がされています。こここそ文武天皇陵なのではないかと研究者の注目の的です。
(次回に続く)