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『前方後円墳に込められた思想解釈 』~前方部は死後の領土を保証するものだったのではないか?

[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #013

大和、河内地方に造営された前方後円墳が地方へ伝播

 

今城塚古墳模型(大阪府高槻市)と妄想をたくましくする筆者

 

 ここ2回ばかり私の妄想を開陳しましたので、責任上そのまとめみたいなことをしておきます。

 

 私は小学生のころに大前方後円墳「大仙(だいせん)古墳・仁徳(にんとく)天皇陵古墳」の航空写真を見て、「ワッペンみたいだなあ」と思いました。周りにも同じ形をした古墳がいっぱいあるので、何かのグループの仲間であることを示すエンブレムみたいなものだと思いました。

 

 そしてそのエンブレム古墳が百舌鳥(もず)古墳群だけでなく、古市(ふるいち)古墳群にもあり、馬見(うまみ)古墳群にもあり、佐紀(さき)古墳群にもある。

 

 調べてみると畿内(きない)はもちろん、日本列島の各地にあることを知ります。これは日本中に広がった大きなグループがあったのだと思いました。

 

 それはもちろん大和王権の広がりと支配地域を示すことを後に知ります。

 

 世界に類例の無い特異な形状の前方後円墳の後円部は被葬者、つまり古墳の主人公を埋葬する場所であることに異論はないでしょう。

 

 それならわざわざくっつけたような前方部はいったい何なのか?

 

 私はあの広大な前方部が、単なる祭祀場ではありえないと感じ続けております。あの前方部にこそ重要な意味が込められた墳形だと思うのです。

 

 前方後円墳は大和王権の本拠地である大和、河内地方にドカドカ造営されています。それは当然でしょうが、問題は大和から離れた地方にも存在する、ということでしょう。

 

仁徳天皇陵古墳ともされる大仙古墳模型

 

大和王権が地方に勢力を伸ばしつつ豪族の世襲を認めた!?

 

『古事記』には大和王権が地方に勢力を伸ばすとき軍団を送りますが「言向和平(ことむけやわする)」のが目的で、ことさら武力で制圧することを避けようとしたように書かれています。

 

 つまり、各地の首長に帰属を促し、従えば冊封(さくほう)するという手法で勢力圏を素早く広げたのでしょう。

 

 その時期と範囲が、前方後円墳の広がりとリンクしていることにも異論はないと思います。

 

 単なる円墳ではなく、そこに広大な方部を許すのは、その地域の首長がたとえ死んでも、死後の世界に領地を許されている証だったのではなかったかと考えるのです。

 

 つまり、その首長の家系代々に世々の世襲を認めたという証ではなかったでしょうか?

 

 そう考えれば、前方後円墳の広がりとその形状に込められた思いや当時の中央政権の思惑まで見えてくるような気がしますし、中央の大王墓が超巨大化するのも理解できると思うのですが…。

 

(根拠を示せと言われましても、これは妄想段階ですのであしからず)

 

今城塚古墳模型

(次回に続く)

 

 

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柏木 宏之(かしわぎ ひろゆき)
柏木 宏之かしわぎ ひろゆき

1958年生まれ。関西外国語大学スペイン語学科卒業。1983年から現在も毎日放送アナウンサー、ニュース、演芸、バラエティ、情報、ワイドショー、ラジオパーソナリティ、歴史番組を数多く担当。現在、アナウンサーを続けながら武庫川学院文学部非常勤講師、社会人歴史研究会「まほろば総研」を主宰。奈良大学通信教育部文化財歴史学科卒業学芸員資格取得。専門分野は古代史。奈良大学卒論は「日本列島における時刻の掌握と報知の変遷」

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