古墳の被葬者を推理しよう! ~タブーだったのか!? 墓の被葬者を書き残さなかった聖徳太子
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #014
絵はあっても文字が残されない古代の墓
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「崇峻天皇陵」とも推定されている藤ノ木古墳
古墳に誰が葬られているのかは、ほとんどの場合わかっていません。
なぜ被葬者がわからないのかというと、墓誌が無いからです。私たちの常識でいうと、お墓には必ず「〇〇家の墓」とか「〇〇の墓」と書いた墓石がありますが、古代の巨大な墳墓にはそういった物がありません。
それでもいくつかは墓誌の出たものもありまして、『古事記』を西暦712年に苦心の末、完成させた太安万侶(おおのやすまろ)は石室内に銅板の墓誌を残していました。さすがは稗田阿礼(ひえだのあれ)が口ずさんで暗唱していた古代の歴史や神話を聞き取って文章化した人ですね。
一方、盗掘はされていましたが高松塚(たかまつづか)古墳やキトラ古墳のように、すばらしい壁画が残されている古墳にも墓誌がありません。絵はあっても文字が書かれていないのです。
一つの石棺に二人並んで葬られていた藤ノ木古墳の謎
1988年10月に奈良県斑鳩(いかるが)町で大発見された藤ノ木(ふじのき)古墳。未盗掘で石室や石棺の中から見たこともないような宝物がワンサカと出てきました。
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未盗掘で宝物が出土で話題となった藤ノ木古墳石室
人骨も二体分、出ています。一つの石棺に二体収められているというのも常識破りですが、これほど物的証拠が豊富でも、被葬者が誰なのかはわかっていません。
すぐ東にある法隆寺の伝承では「崇峻(すしゅん)天皇陵」だとされていて、推定される造営時期もほぼその時代なのですが、被葬者が誰と誰なのかはさっぱりわかりません。
ただ出土した副葬品の特徴からすると、天皇クラスの人物であることは間違いないでしょう。
法隆寺を建立したのはご存じの厩戸皇子(うまやどのみこ)、つまり聖徳太子です。
太子は藤ノ木古墳の被葬者を知っていたに違いありません。経典に通じて経文の解説書を書いたほどの人ですが、藤ノ木古墳が誰の墓なのかを一文字も書いてくれていません。
古代の常識として、墓の被葬者を書き記すことは、むしろタブーだったのではなかったでしょうか? そう思われるぐらい頑固に墓誌を残さないのです。
しかしそれでも研究者は文献を研究し、考古遺物を調査研究して造営された年代や被葬者を慎重に特定しようとしているのです。
聖徳太子の時代に重なる藤ノ木古墳には、いったい誰が葬られているのでしょう? しかも一つの石棺に二人並んで葬られているのはなぜなのでしょう? ミステリーですね! 皆さんも歴史探偵となって被葬者を推理してみませんか⁉
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斑鳩文化財センター石棺レプリカ
(次回に続く)