聖徳太子1400年大遠忌② 太子の時代 〜厩戸皇子とは何を目指した人物なのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #025
伝統・伝来的ルールに則らなければならない仏教建築と諸仏、作法
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590年代に創建された四天王寺南大門/柏木宏之撮影
仏教を受容するということは、経典が読めなければなりませんし、写経をするためには文字が書けなけ
ればなりません。書き写すための高価な紙も必要です。そしてなんといってもお寺が無ければなりません
。
お寺と一口に言っても、南大門、中門、五重塔、金堂、回廊、講堂、食堂(じきどう)、経蔵、鐘、僧房、宝蔵などなど、伽藍(がらん)という、それまで大和の国に無かった建物を造らなければなりません。
その上に、仏像を造るための美術学、成像するための彫刻や鋳造技術、ほかに線香や蝋燭、太鼓や鐘、幡や天蓋、仏教絵画などなどなど…。いわゆる荘厳具と呼ばれる仏具の製作技法を学ばねばなりませんし、雅楽などの舞踊や演奏も学ばねばなりません。
そのためには先生として優秀な渡来人を迎えなければなりません。大和国には仏教が受容されるまで、瓦屋根すらなかったのです。
厩戸皇子はそういった先進文化を仏教の受容という形で取り入れ、近代化を進めたのです。
そのためにも隋という先進大国に遣使を送らなければならなかったのです。
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建物の配置にも意味がある四天王寺伽藍配置図/柏木宏之撮影
冠位十二階の制定、十七条憲法の発布は外圧による⁉
ここで面白いエピソードをひとつ。
実は小野妹子が「日出る処の天子、日没する処の天子に書をいたす」で始まる国書を持って行ったのは
二回目の遣隋使ではなかったか、というのが定説になりつつあります。
第1回遣隋使は西暦600年に隋に行ったようです。
ところが倭国の官僚制度や法律制定の事情を遣隋使に聴取した隋国は、「官僚制度も法律も無いような
野蛮な国は認めない」として追い返しているのです。
それはわが国の歴史書や記録には一切書かれていませんが、『隋書』にははっきりと書かれているので
す。
わが国の年表を見てもそれを思わせる記録があります。
すなわち聖徳太子による603年の冠位十二階の制定と604年の十七条憲法の発布です。私にはこのあわただしい制定が、第1回遣隋使の失敗をリカバーするための施策に見えてなりません。590年代には飛鳥の法興寺と上町台地の四天王寺が創建されています。
そして法興寺に飛鳥大仏を建立すると同時に、小野妹子に国書を持たせて派遣するのです。
(次回に続く)