聖徳太子1400年大遠忌① 太子の時代 〜厩戸皇子とは一体どういう人物なのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #024
知っていそうでよく知らない謎多き人物
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聖徳太子像『集古十種』松平定信編/国立国会図書館蔵
聖徳太子という名前を知らない人はいないのではないでしょうか?
少し年配の方ならなんといってもお札の代名詞でもありました。
しかし、どんな時代のどんな人だったのかを知っている人は少ないかもしれません。
もちろん学校の教科書にも「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定した人、遣隋使を初めて送った人、ぐらいのことは説明があります。
そもそも聖徳太子が本格的に活躍した時代は飛鳥時代で、古墳時代の終わりごろでもあります。飛鳥時代を開いたのはわが国初の女帝である推古天皇で、「万機を以って悉に委ねん」として推古朝(すいこちょう)の皇太子となった聖徳太子は摂政という立場に立ったのです。
つまり聖徳太子は古代飛鳥時代初期の政治家だったといえるでしょう。
聖徳太子の父は用明(ようめい)天皇、母は間人(はしひと)皇后で、父と母は異母兄妹です。当時は同母関係の男女の結婚は禁忌でしたが、異母兄妹であるならむしろ結婚は歓迎された時代なのです。
太子の父方の祖母は堅塩姫(きたしひめ)、母方の祖母は小姉君(おあねぎみ)といって、二人とも蘇我馬子の妹でした。
現代人には理解しがたい血縁関係ですが、古代の常識では当たり前のことでした。
つまり、聖徳太子は非常に色濃い蘇我の皇子だといえるのです。
事実、太子が推古天皇に代わって政治を司った時、大臣は蘇我馬子でしたし、推古天皇自身も蘇我の皇女なのです。
6世紀の末に成立した推古朝は、まさに蘇我氏の王朝だったといえますね。
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推古天皇即位の豊浦宮跡遺跡(向原寺公開遺構/著者撮影)
仏教が伝来し古墳時代と飛鳥時代をつなぐ
その聖徳太子、実は生存中の名前は違います。亡くなってから贈られた尊名が聖徳太子ですから、存命中は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていたでしょう。
パリパリの蘇我の皇子である厩戸皇子は、幼いころから聡明な子供だったようです。
外交も司る蘇我氏の皇子ですから、海外の事情や最新の文化、高位の渡来人と接するチャンスがとても多かったのでしょう。
そして厩戸皇子は当時の最新哲学であり最新の文化である「仏教」に大きな興味を持ちます。
仏教伝来と聞くと、宗教が伝来したのだと思いますが、実はそれだけではないのです。
(次回に続く)
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甘樫丘から太子活躍の飛鳥盆地を眺める(著者撮影)