「継体天皇」〜大阪・枚方の樟葉で即位した淀川水運の王が現代に続く!?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #023
初代から五代までは家督を継ぐ権利があった古代
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継体・安閑・宣化両天皇3種類の石棺(復元 今城塚古代歴史館)
26代継体(けいたい)天皇陵についてお話してきましたので、まとめとして継体天皇その人についてお話しておきましょう。
そもそも25代の武烈(ぶれつ)天皇に后(きさき)も皇子(みこ)もいなかったことから、大王家に血縁のある大王候補を探したことから始まります。当時、朝廷で最高の権力を握っていたのは大伴金村(おおとものかなむら)という大連でした。
権力を安定したものにするには、大王を擁立したという実績が必要です。
おそらく武烈天皇までを擁立してきた豪族に代わって、新王朝をたてるという目的が大伴金村にあったのはまちがいありません。つまりそれまで朝廷で大きな権力を握っていた古い豪族にとって代わるチャンスを金村はつかんだのでしょう。各地に大王の縁者を探したようですが、当時は畿内という狭いエリアの外には、有力な地方豪族がいくつか存在していたようです。
男大迹王(おおどおう)という近江から北陸にかけて大きな勢力を持っていた地方王を見つけ出します。
その人は応神(おうじん)天皇五世の孫だということです。
古代は、初代から五代までは家督を継ぐ権利がありましたので、ぎりぎり皇位継承の権利があったようで、男大迹王は応神天皇の家督を継ぐ正当な血縁者だというのです。
九州の大勢力だった筑紫・磐井を滅ぼすことに成功
継体王朝の特徴をいうと、水運の王者ともいえるでしょう。
今城塚古墳の円筒埴輪(えんとうはにわ)には、大型船の線画の描かれたものが数多く出土します。
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円筒埴輪の大船線画(復元 今城塚古代歴史館展示著者撮影)
男大迹王朝はそれまで成しえなかった九州の全土制圧を目指し、九州の大勢力だった磐井(いわい)を滅ぼすことに成功したのです。それに約20年がかかりました。そしてようやく大和の磐余(いわれ)に入って宮を建てたのでしょう。
古代の大王としては非常に特異な、枚方(ひらかた)の樟葉(くずは)で即位し、その後も淀川を離れずに宮を遷(うつ)り続けた大王は、奈良時代になって「継体天皇」と贈り名されます。
つまり王朝を継いで体制を維持した天皇ということです。その継体天皇陵が淀川右岸の高槻市にあるというのは、古来渡来人の本拠地でもあった三島地域の勢力をバックに持った大王だったともいえるでしょう。
ただ、そのあとを継いだ安閑(あんかん)・宣化(せんか)両天皇の王朝が本当にあったのかどうか?
これが古代史研究者の間では大変な問題になっています。
この両王朝があって、欽明(きんめい)天皇が即位をしたのなら仏教公伝は552年ですが、もしも両王朝が無くて欽明天皇がすぐに即位していれば、538年に百済から仏教が公式に伝えられたということになります。
百済の記録には、継体大王は皇太子と皇子と3人そろって同じ日に亡くなったとあり、今城塚古墳の調査では3種類の石棺のかけらが出て来ています。
古代にはわからないことが星の数ほどあるといってよいでしょう。
継体王朝にもわからないことが多くあります。皆さんも推理をしてみてはいかがでしょうか?
(次回に続く)