「聖徳太子のお墓はどこに?」 〜近辺には父親の用明天皇陵や叔母の推古天皇陵、叔父の敏達天皇陵も
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #028
東側に聖徳太子、西側に膳部菩岐々美郎女
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叡福寺北古墳(聖徳太子廟石室内) 近つ飛鳥博物館再現展示/柏木宏之撮影
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聖徳太子廟棺台の格狭間 近つ飛鳥博物館再現展示/柏木宏之撮影
ちょうど1400年前に亡くなった厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)は「磯長谷(しながのたに)に埋葬されたと『日本書紀』に書かれています。
場所は現在の大阪府太子町のことで、二上山の西麓です。この辺りは地図を見ればわかりますが、太子の父親・用明天皇陵や叔母の推古天皇陵、叔父の敏達(びだつ)天皇陵に小野妹子の墓もあります。さらには謎の二子塚(ふたごづか)古墳もありますが、この二子塚古墳についてはまた機会を別に持ちたく思います。
さて、太子の墓は叡福寺(えいふくじ)という寺の境内に守られるようにあります。太子が亡くなったあと、推古天皇から広大な領地を施入された香華寺が建立されて太子廟を守ったのが叡福寺の始まりだとされています。
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大阪府河内郡太子町磯長 叡福寺
多少楕円形をした円墳の叡福寺北古墳こそが聖徳太子のお墓です。
直径54メートル余り、高さは約7メートルの二段円墳で、南面に入り口のある玄室は奥行き約5.5メートル、横幅高さ共に約3メートル、羨道を伴う石室の全長は12.7メートルという立派なものです。
玄室には格狭間(こうざま)という気品ある装飾が施されて丁寧に細工された三台の棺台が存在します。つまり、この古墳は三人の被葬者が丁寧に葬られていたのです。
これまでの研究によれば、奥壁に沿って太子の母親穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、その両脇に横壁に沿って東側に聖徳太子、西側に妻の一人、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が合葬されたと考えられています。
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聖徳太子廟石室配置図/柏木宏之作画 ※横向きの棺台は石棺だという説もありますが石棺にしてはくり抜きが浅く、本稿では棺台と考えます。
敏達天皇陵が前方後円墳、推古天皇陵、用明天皇陵も方墳、聖徳太子廟は円墳
叡福寺の寺伝やそのほかの文献、そして石室内調査の結果は、ここが聖徳太子一家の合葬廟であるとしか考えられないことを示しています。
さらにわが国の大乗仏教の祖として尊崇されている太子廟には、空海、親鸞、叡尊、一遍、日蓮らが参籠したと伝わっています。
さて、歴史遊びに話を進めましょう。
現在の太子町磯長地域は、蘇我氏の根拠地の一つです。
この地域に点在する古墳は、敏達天皇陵が前方後円墳、推古天皇陵は方墳、用明天皇陵も方墳、そして円墳の聖徳太子廟です。
面白いですね! 全員蘇我氏とかかわりが深いのです。
古墳の造営場所と形には当時の人々の想いと時の権力者の勢力事情が大きく作用しているとしか思えません。
このあたりの考察と私見はまた次回! 歴史で遊びましょう!
(次回に続く)